黎明録/if
「………一歩を…?」
「ああ、そのために、蝦夷まで行ったんだろ?あいつらに追いて行かれたとか、そういう気持ちは捨てろよ。追いて行かれたんじゃない。あいつらの生き様を後世に伝えるために、残してくれたんだ。そう思えば、つらくないだろ。けど、俺たちはまだ昔話をして慰め合うほど、年寄りなわけじゃない。生き方はいつだって変えられる。…それに、よくよく考えてみろよ。蝦夷まで連れて行ってくれたのは、誰だったのか。あんたが泣いた時、となりにいたのは誰だったのか」
「……あ……」
彼女は今更のように目を開く。薄ら涙を浮かべ、そして唇を震わせた。
「嫌いじゃないなら、それで充分じゃないか?これからしっかり好きになればいい。……って、なんであいつの肩を持ってやってるんだろうな」
自分でも不可解に思いながら、先を続けた。
「まあ、…あんたに諭すほど、俺は学もねぇし、偉いわけじゃないから、言葉半分で聞き流してくれよ」
歯の浮いたことをいくつも言ったように思い、龍之介は照れてそっぽを向いたが、千鶴は彼の横顔を眺めて、そして次第に笑みを作った。
「…ありがとう、井吹さん。わたし、少し、目が覚めました」
「……いや、そこまで凄いこと言ってないだろ」
「いいえ、ここで井吹さんに会えてよかった。ひとりなら悶々としてただけなのに、急に気持ちが軽くなりました。…本当に、よかった…」
微笑む彼女は愛らしく首を傾けた。
「………」
無防備に男に笑みを見せるのは、あまり感心できないが、今はいいことにした。彼女の気持ちを軽くすることが出来たなら、彼自身、蝦夷に今まで滞在し、ひとり彼らと向き合った意味もあっただろう。
「…井吹さん、よかったら、今からわたしの家に寄って行きませんか?一緒にお夕飯でも…」
微笑んで提案をする千鶴の背後に、千景の冷ややかな殺気に似た気配を感じたように思い、何故だか身を震わせ、即座に首を横に振る。
「あ…いや、あんたの旦那にくびり殺されそうだから、やめておくよ」
「…ええ?…そ、そんなことしません、さすがの千景さんでも…っ」
「いや、あんたは気づいてねぇだろうけど。俺も生き残った以上、さすがに命は惜しい」
「??…で、でも…今度はいつお会いできるかわかりませんし…」
「いいんだ。俺を思うなら、頼むから誘わないでくれ」
冷や汗の出る思いで告げると、千鶴は酷く残念そうにしたものの、諦めるように息を漏らした。
「……わたしの見えないところで、伊吹さんをいじめてたんですね…千景さんったら」
「は?いや、違う。あいつはそもそも俺みたいな小者を相手にしてないから」
「でも…そんなに嫌がるだなんて…」
はぁとため息を漏らす彼女に「こりゃ駄目だ」と肩を落とした。
風間、あんたの嫁は相当ボケてて鈍いぞ。彼女も風間が相手では苦労するだろうが、風間も似たようなものかもな。
とくに、異性関係への対応は。
苦笑いを浮かべて、龍之介は千鶴の傍を離れる。
「じゃあな。また、もし会う機会があったら、今度は旦那の許可を得てから頼むよ」
「……もうその頃は、江戸にいないかもしれませんよ…?」
何気なく言った言葉に、千鶴自身がはっとして、赤面する様を見取り、龍之介は再び苦笑いを浮かべて手を上げると今度こそ別れた。
「またな。風間によろしく」
この別れに躊躇いはいらない。彼女はもうひとりの自分。二度とまみえることはなかったとしても、彼女の一歩を踏み出す後押しが出来たなら、それでいい。
龍之介は満足気に笑みを浮かべ、往来する大通りの人並みに紛れて行った。
ぼんやりと龍之介の背を見送った千鶴は、寂しい気持ちになったが、しかしここで彼と出会い、別れることは定められた運命のように思い、諦めることにした。
彼は図らずも、千鶴の心を軽くし、そして優しく次へと踏み出す一歩のきっかけを与えてくれたように思う。
感謝こそすれ、恨むことはない。
…思えば井吹さんも、不思議な人…。
ほとんど、いや、まったく彼のことは知らない。それなのに、はじめて出会った時から、妙な親近感を覚えていた。
彼もまた、何かしら新選組と関わりをもっていたに違いないが、お互い避けるように口にせずにいた。
しかし、数ヶ月ぶりに出会った彼は、躊躇いなく彼女に問いかけた。彼の表情は晴れやかで、彼自身、千鶴が躊躇い続ける一歩を踏み出したに違いない。
…わたしも、進まなきゃ。思い出に縋るだけじゃなくて、新しい道を踏み出すための、勇気を持たなきゃ。そうでなければ、新選組のみんなにも怒られるだろうし、千景さんにも失礼だわ。
千鶴の心に、決意のようなものが宿る。と。
「……千鶴」
名前を呼ばれてはっと振り返ると、そこに千景が立っていた。いつからそうしていたのかわからないが、片手に酒壺を下げ、彼女を見つめている。
「…ち、千景さん…?!」
「途中まで迎えに出たのだが、いつも使う往診の道からそれて何をしていた」
静かな声音に、千鶴は戸惑いながら、言う。
「…懐かしい人に出会ったんです。ついさっきまで…ここにいたのですけど…」
「ほう…?誰だ」
「それは…」
怪訝にする千景を千鶴はまじまじと見つめた。
そして、そっと首を振って千鶴は千景に歩み寄る。
「…帰ってからお話します。とりあえず、帰りましょうか?」
見上げて微笑む彼女に、それ以上の追及はせず、彼女の往診道具を取り上げると「行くぞ」と歩き出す。
「千景さん」
「なんだ」
「………て、手を…繋いであげてもいいですよ…?」
この提案は抵抗がないではなかったが、距離を縮めるための努力は少しずつでもすべきだと、顔を赤らめながら告げると。
彼は神妙な顔をして千鶴を見た。…なんだろう。
「可愛気に欠ける言い様だが、その提案は悪くない。……だが千鶴、生憎俺の手は両方塞がっているぞ。何の責め苦だ」
「?!……あ!」
確かに、片手は酒壺、残る片手は彼女の往診道具…。
失念に気づき、乾いた笑みを浮かべる彼女に、千景は瞳を細めて言う。
「…まったく…お前はなかなかに悪妻よな」
「な、あ、悪妻?!ど、どこがですが!酷いですっ」
「酷いのはどちらだ。俺を待たせ、焦らすだけでは飽き足らず、責め苦までも…。ああいや、お前はまだ俺の妻ではないのだから、ただの悪女か」
「あ、悪女……?!し、失礼なっ!それに、責め苦って、大袈裟ですっ」
絶句する彼女に、彼はにやりと笑みを浮かべて続けた。
「何が違うかわからぬな。…だが、俺のような出来た夫を持てることを、お前は譽に思わねばな…千鶴」
「……はいはい。…もう、言いたいこと言って……」
ぶつぶつ漏らしながらも、しかし、先ほど龍之介と交わした会話を頭に巡らせ、千鶴は肩の力を抜いた。
せっかく、井吹さんが一歩を踏み出す勇気をくれたのだから、いつものやりとりでうやむやにして、退いちゃ駄目。
心密かな決意を示すために、そっと手を伸ばし、繋がるように千景の腕に両手を絡ませた。大胆なことだと知りながら。
ぎゅっと千景の袖を握り込みながら、早口で告げる。
「これなら、いいですか?」