繋がれた魂
朝、目が覚めて、すぐそばに穏やかな寝顔があるのと同じくらいしあわせなことなんてない。
一昨日空港まで迎えに行ってから、その日じゅうは返事が一音節を超えることもなく名前すら呼んでもらえなかった。昨日は朝早くから仕事、けれどどうしても気になって1時間ぶん早引きさせてもらい、法定速度ぎりぎりで飛ばして帰るとイギリスは額に汗してなぜかいたるところに消し炭をくっつけながらローストビーフを焼いていた。
それで、一も二もなくお預けを食らっていたぶんまで抱きしめにかかった。堪え性がないと思われるのが嫌だったし、まだ青い顔をしていたから事に及びはしなかったけれど。
(うん、あのときはまだ具合が悪そうにしてた)
7月の頭近くになるとイギリスは普段の強がりをかなぐり捨てて傍目にもわかりやすく体調を崩す。病にも似た自分への執着を喜ぶほどには年を重ねたが、実際に息を荒げたり食べたものを戻したりする姿を見ると変わらず心が痛んだ。くわえて、心の悪い部分は無防備な姿を大勢な前に晒したくないと囁きかけてくる。
となれば、するべきことはひとつしかない。幸い現代の停滞のなかで時間はほとんどの国にとって無限に近かったから、無事に予定調和をこなして恋人になってのち、少しずつイギリスに自分を慣らしていく過程は苛立ちを伴えど確実に進んでいった。
そうしていま目の前に彼がいる。
規則正しい呼吸がゆったりなされる様。すこし汗ばんだ額はくつろいでいる。するとそれ以上を望みたくなってそわそわと心が落ち着かなくなってくる。
指先で汗を拭うと、瞼が開いてうっすらと緑が見えた。頭を持ち上げ、再び降ろす。何度か瞬きを繰り返すところへ声をかけた。
「おはよう」
「……おはよう」
「もうすこし寝ててもいいよ」
「お前、遅刻は?」
「まだだいじょうぶ」
「なら期限はあるんだな」
言って上半身を起こそうとするので慌てて腕を掴む。
「まだだいじょうぶだってば」
「もう目が覚めてるのに、なんでここでお前に付き合わなきゃいけないんだ」
「いいから付き合ってよ、俺の元気が出るように」
「お前はいつだって元気だろうが」
胡乱げな視線を向けられて肩をすくめた。
「じゃあ、イギリスは今日来てくれるよね?」
片腕を捉えられたままで器用に上半身を支え起こし、ベッドから降りようとしていたイギリスが動きを止めた。わざとらしいため息のあとでマットレスに倒れんだ音と埃に眉を顰め、肩のすぐ側に頭を落ち着ける。怖いような曲がり方をした腕をとっさに外すと、イギリスは寝返りを打って片肘をつき、こちらからは見上げるようなかっこうになった。
眉間の皺うらはら、やたらとやわらかな声が、
「ばか」
「ばかでいいから、可能性くらいは考えておくれよ、イギリス。きみの席はいつも空けてあるんだからさ、それくらいは知ってるだろう?」
「……ばーか」
伸ばされた指は髪に届いた。ゆっくりと滑り、撫でられる感触は触れるか触れないかの微妙なラインをさまよっている。
どうしてこんな触れ方ができるのだろう。撫でられることなんて普段は大嫌いで、だいいちおとなの男を撫でようとする手合いなんてろくなものじゃない。イギリスの手だってほんとうは払いのけたいけれどなぜかできずに、その感触をあながち悪くもないと思う自分がいる。
やさしくもやわらかくもない、言うなればおそるおそる、といった体の動きを繰り返す指先。ときどき髪を梳かれながら気持ちだけでも逃れるべく難しい顔を作ろうとしていると、イギリスが微笑む気配がした。
「俺がどうしても行けないのは、分かってるだろ?」
「こども扱い」
「それを口に出して言ってる間は、お前はまだまだこどもだろうな」
「うるさいよ、もう」
直接振り払ったわけではないものの、身を起こしたことで結局イギリスの手が離れてしまう。
(こんなにすぐ機嫌を損ねてしまうようなら、イギリスの言うとおりじゃないか)
それでもいて欲しかったのだ。7月4日というよき日に、そばで笑って、髪を梳く恋人でいてくれるのなら、あの目をやるたびにかなしくなる空いた席を埋めて欲しかった。
カーテンはもう光を遮れ切れなくなっている。今日もよく晴れた空になるだろう。
「アメリカ、」
「……なんだい」
「俺はここで、お前が帰ってくるまで待っててやるよ」
「それじゃいつもと同じじゃないか」
「まあ聞け」
とイギリスが言い、アメリカが勢いよく振り向くとにやにや笑いを浮かべた顔と出会った。
「あいつらと馬鹿騒ぎをしたければすればいい。お前には言うまでもないだろうが、せっかくだから主役らしく日付が変わるまでたんと祝ってもらえ」
実に楽しそうに言葉を続ける。
「でもな、帰ってきたお前を真っ先に見るのは――迎えるのは、この俺だ。酒は持ってきてある。飯は……まあいい。向こうで食ってくるだろうしな。けど、食べたいものがあったら用意しといてやる。プレゼントがないこともない。ここで、ふたりきりで、祝ってやるよ」
「……イギリス」
最後の台詞をしっかりと言い切ったくせに、アメリカに名前を呼ばれた途端視線を泳がせはじめたひとを引き寄せる。
「ねえイギリス、最後のやつ、もう一回言って?」
「嫌だ」
背けた顔を無理やり覗き込む。
「じゃあ、せめて『おめでとう』くらいは!」
「調子に乗るなバカッ!」
「今日くらいはいいじゃないか!それに、イギリスが『祝って』くれるんだもの」
「お前、ほんと、やっすいな……」
にべもない台詞を吐く唇に音をたててキスをした。ほんの一瞬で今までの不機嫌がどこかに飛んでいってしまったのはあまりにこどもっぽくて現金だと、今度こそはっきりと思う。
けれどほんとうは現金どころではない価値があるのだと、たぶんイギリスよりもアメリカのほうがよほどよく知っている。なにせ長きにわたって望んでいたことだ。
イギリスが具合を悪くして、泣いて、昔に縋ったところで7月4日はアメリカにはどこまでも嬉しい日で、一抹の苦みが混じっていることも含めてイギリスに隣にいて、すこしでもこの喜びを分けあいたい。
「そうじゃないって、イギリスにだって分かるよね」
「はぁ?」
「イギリスのお祝いの価値が安かったら、パーティーに出てもらうために俺がごねる必要なんてないもの」
「それは……」
「謝るのは禁止」
「ッ俺はべつに」
「いいから」
(……いいから)
抱きしめる腕に力を込める。真夜中のようにベッドのスプリングが軋んだ。
「だから、俺は努力がまだ足りないって思うことにする」
「意味が分からないんだが」
「いつかは、イギリスが来てくれることを目指しててもいいんだよね?」
今度はおそるおそる、どころではない。とっくに背中側に回っていた両手がなにを思ってかアメリカの肩に爪を立て、そのまま引っ掻く動きをとるようになったくせに顔を胸のあたりに押し付けてくるので、一旦体制を立て直すべく身を離すと、イギリスはいつの間にか涼しい顔に戻っていた。
「で、時間は?」
全身から力が抜けた。
「きみはほんとうに……」
「時間は?」
「ええと、ちょっと待って、電話……ありがとう。ええと、あと、1時間は使える」
一昨日空港まで迎えに行ってから、その日じゅうは返事が一音節を超えることもなく名前すら呼んでもらえなかった。昨日は朝早くから仕事、けれどどうしても気になって1時間ぶん早引きさせてもらい、法定速度ぎりぎりで飛ばして帰るとイギリスは額に汗してなぜかいたるところに消し炭をくっつけながらローストビーフを焼いていた。
それで、一も二もなくお預けを食らっていたぶんまで抱きしめにかかった。堪え性がないと思われるのが嫌だったし、まだ青い顔をしていたから事に及びはしなかったけれど。
(うん、あのときはまだ具合が悪そうにしてた)
7月の頭近くになるとイギリスは普段の強がりをかなぐり捨てて傍目にもわかりやすく体調を崩す。病にも似た自分への執着を喜ぶほどには年を重ねたが、実際に息を荒げたり食べたものを戻したりする姿を見ると変わらず心が痛んだ。くわえて、心の悪い部分は無防備な姿を大勢な前に晒したくないと囁きかけてくる。
となれば、するべきことはひとつしかない。幸い現代の停滞のなかで時間はほとんどの国にとって無限に近かったから、無事に予定調和をこなして恋人になってのち、少しずつイギリスに自分を慣らしていく過程は苛立ちを伴えど確実に進んでいった。
そうしていま目の前に彼がいる。
規則正しい呼吸がゆったりなされる様。すこし汗ばんだ額はくつろいでいる。するとそれ以上を望みたくなってそわそわと心が落ち着かなくなってくる。
指先で汗を拭うと、瞼が開いてうっすらと緑が見えた。頭を持ち上げ、再び降ろす。何度か瞬きを繰り返すところへ声をかけた。
「おはよう」
「……おはよう」
「もうすこし寝ててもいいよ」
「お前、遅刻は?」
「まだだいじょうぶ」
「なら期限はあるんだな」
言って上半身を起こそうとするので慌てて腕を掴む。
「まだだいじょうぶだってば」
「もう目が覚めてるのに、なんでここでお前に付き合わなきゃいけないんだ」
「いいから付き合ってよ、俺の元気が出るように」
「お前はいつだって元気だろうが」
胡乱げな視線を向けられて肩をすくめた。
「じゃあ、イギリスは今日来てくれるよね?」
片腕を捉えられたままで器用に上半身を支え起こし、ベッドから降りようとしていたイギリスが動きを止めた。わざとらしいため息のあとでマットレスに倒れんだ音と埃に眉を顰め、肩のすぐ側に頭を落ち着ける。怖いような曲がり方をした腕をとっさに外すと、イギリスは寝返りを打って片肘をつき、こちらからは見上げるようなかっこうになった。
眉間の皺うらはら、やたらとやわらかな声が、
「ばか」
「ばかでいいから、可能性くらいは考えておくれよ、イギリス。きみの席はいつも空けてあるんだからさ、それくらいは知ってるだろう?」
「……ばーか」
伸ばされた指は髪に届いた。ゆっくりと滑り、撫でられる感触は触れるか触れないかの微妙なラインをさまよっている。
どうしてこんな触れ方ができるのだろう。撫でられることなんて普段は大嫌いで、だいいちおとなの男を撫でようとする手合いなんてろくなものじゃない。イギリスの手だってほんとうは払いのけたいけれどなぜかできずに、その感触をあながち悪くもないと思う自分がいる。
やさしくもやわらかくもない、言うなればおそるおそる、といった体の動きを繰り返す指先。ときどき髪を梳かれながら気持ちだけでも逃れるべく難しい顔を作ろうとしていると、イギリスが微笑む気配がした。
「俺がどうしても行けないのは、分かってるだろ?」
「こども扱い」
「それを口に出して言ってる間は、お前はまだまだこどもだろうな」
「うるさいよ、もう」
直接振り払ったわけではないものの、身を起こしたことで結局イギリスの手が離れてしまう。
(こんなにすぐ機嫌を損ねてしまうようなら、イギリスの言うとおりじゃないか)
それでもいて欲しかったのだ。7月4日というよき日に、そばで笑って、髪を梳く恋人でいてくれるのなら、あの目をやるたびにかなしくなる空いた席を埋めて欲しかった。
カーテンはもう光を遮れ切れなくなっている。今日もよく晴れた空になるだろう。
「アメリカ、」
「……なんだい」
「俺はここで、お前が帰ってくるまで待っててやるよ」
「それじゃいつもと同じじゃないか」
「まあ聞け」
とイギリスが言い、アメリカが勢いよく振り向くとにやにや笑いを浮かべた顔と出会った。
「あいつらと馬鹿騒ぎをしたければすればいい。お前には言うまでもないだろうが、せっかくだから主役らしく日付が変わるまでたんと祝ってもらえ」
実に楽しそうに言葉を続ける。
「でもな、帰ってきたお前を真っ先に見るのは――迎えるのは、この俺だ。酒は持ってきてある。飯は……まあいい。向こうで食ってくるだろうしな。けど、食べたいものがあったら用意しといてやる。プレゼントがないこともない。ここで、ふたりきりで、祝ってやるよ」
「……イギリス」
最後の台詞をしっかりと言い切ったくせに、アメリカに名前を呼ばれた途端視線を泳がせはじめたひとを引き寄せる。
「ねえイギリス、最後のやつ、もう一回言って?」
「嫌だ」
背けた顔を無理やり覗き込む。
「じゃあ、せめて『おめでとう』くらいは!」
「調子に乗るなバカッ!」
「今日くらいはいいじゃないか!それに、イギリスが『祝って』くれるんだもの」
「お前、ほんと、やっすいな……」
にべもない台詞を吐く唇に音をたててキスをした。ほんの一瞬で今までの不機嫌がどこかに飛んでいってしまったのはあまりにこどもっぽくて現金だと、今度こそはっきりと思う。
けれどほんとうは現金どころではない価値があるのだと、たぶんイギリスよりもアメリカのほうがよほどよく知っている。なにせ長きにわたって望んでいたことだ。
イギリスが具合を悪くして、泣いて、昔に縋ったところで7月4日はアメリカにはどこまでも嬉しい日で、一抹の苦みが混じっていることも含めてイギリスに隣にいて、すこしでもこの喜びを分けあいたい。
「そうじゃないって、イギリスにだって分かるよね」
「はぁ?」
「イギリスのお祝いの価値が安かったら、パーティーに出てもらうために俺がごねる必要なんてないもの」
「それは……」
「謝るのは禁止」
「ッ俺はべつに」
「いいから」
(……いいから)
抱きしめる腕に力を込める。真夜中のようにベッドのスプリングが軋んだ。
「だから、俺は努力がまだ足りないって思うことにする」
「意味が分からないんだが」
「いつかは、イギリスが来てくれることを目指しててもいいんだよね?」
今度はおそるおそる、どころではない。とっくに背中側に回っていた両手がなにを思ってかアメリカの肩に爪を立て、そのまま引っ掻く動きをとるようになったくせに顔を胸のあたりに押し付けてくるので、一旦体制を立て直すべく身を離すと、イギリスはいつの間にか涼しい顔に戻っていた。
「で、時間は?」
全身から力が抜けた。
「きみはほんとうに……」
「時間は?」
「ええと、ちょっと待って、電話……ありがとう。ええと、あと、1時間は使える」