凌霄花 《第一章 春の名残》
一時騒がしくなったが、報せを持ってきた男が上座に立ったことでしんと静まり返った。
皆、最悪の事態を覚悟し身構えた。
良く通る声で、男は事件の当事者を告げた。
「赤穂藩浅野様が高家吉良様に刃傷!」
「え!?」
一人だけ、声を上げた者がいた。
それは、助三郎だった。
「ん? どうした?」
じろりと一同の視線を集めた助三郎は、必死に弁明した。
「なんでもございません。お気になさらず」
すぐに皆の助三郎への興味は失せ、部屋には安堵の声が響いた。
「よかった…。うちには関係が無いか!」
「殿がそのような短慮な真似をする筈が無い」
「浅野様も、乱心が過ぎたな」
一人、また一人、部屋から去って行った。
最後に残ったのは早苗と助三郎。
助三郎は先ほどと同じ場所に、俯き加減で座っていた。
様子がおかしい夫に、早苗は声を掛けた。
「…助三郎。大丈夫か?」
「え? あ、あぁ。なんともない。ちょっと疲れたみたいだ。酒飲んで突っ走ったのが間違いだな」
笑ってそう言った彼の眼の奥に、なにかモヤモヤしたものが見えた。
「…ちょっと来い」
早苗は助三郎を引っ張り、人気の無い縁側に腰掛けた。
「…何か知ってるみたいだな?」
「…何が?」
視線を逸らす彼に、早苗は怯まず言った。
「刃傷事件の当事者を聞いた時のお前の顔、すごく驚いてた。何も知らないって顔じゃなかった」
あるきっかけで耳にした藩の頭同士のいざこざ。
それについて話すには、少し畏れ多かったが、信頼できる『親友』に打ち明けることにした。
「…聞いてくれるか?」
「あぁ」
助三郎は早苗に一から話し始めた。
あの日、赤穂藩士堀部安兵衛と会った出来事を早苗に語った。
「…浅野様が、吉良様にいじめられてたって事か?」
早苗もその話に驚きを隠せなかった。
藩の一番上に立つ者がいじめ、いじめられる。
『藩主』の人間臭さを彼女は垣間見た気がしていた。
「…乱心じゃない。何か訳があって、それはいじめられてたからってことか?」
「安兵衛さんの考えだ。事実かは分からない」
いじめが定かだとして、どうして『刃傷』という行為に及んだのか。助三郎には理解できなかった。
その根拠である、自身の経験を早苗に語った。
「俺も、ガキのころいじめられた。『仕事ができない』『生意気だ』って。でも、刀で傷つけようなんて、これっぽっちも思ったことは無い」
「…そうか。」
「刀は、人を殺す物。人を傷つける物だ。それをその通りに使う心理が、俺には理解できない」
早苗は覚えていた。
助三郎が剣を使うのは、『守るため』
彼は言った『あいつの笑顔を守るため』
その『あいつ』は、『早苗』だった。
言葉通り、何度も彼に守られ、助けられた。
物理的にも、精神的にも。
そこで早苗は有る考えに至った。
「何かを、守りたかったからじゃないのか?」
「…何か?」
助三郎は早苗を見た。
「殿様の守りたい物なんて俺にはわからないが、なにかあったんだと思う」
「浅野様の、守りたいものか…」
二人でそれが何なのかと、思いを巡らせた。
静かに二人で過ごしていると、辺りは薄暗くなっていた。
不安になってきた早苗は、そっと隣の助三郎に聞いた。
「…助さん、浅野様はどうなるんだ?」
「まず、理由を調べるだろうな。どうして抜刀して、斬りかかったのか」
「それで?」
「乱心と故意で処分が別れると思う」
「…無罪放免、なんてならないよな?」
「あぁ。殿中での抜刀は御法度。御咎めは絶対に逃れられん」
「そうか…」
二人は大きな溜め息をついた。
早苗を元気づける為に、助三郎は少しだけ希望が持てる話をした。
「だが、武家の決まりの喧嘩両成敗って良いやつがある。浅野様だけ痛い目に遇うなんてないさ」
「そうか。吉良様がいじめていたら、吉良様にもお咎めがあるってことか」
…しかし、助三郎の考えは当たらなかった。
縁側に座っている二人の所へ、殿に仕える小姓がやってきた。
「殿がお呼でございます」
城から一時帰宅した藩主は、蝋燭一本だけの暗い部屋に居た。
上座に座ってはおらず、部屋に面する庭で咲いている桜を眺めていた。
「…お呼びでございますか?」
「来たか。近こう寄れ」
言葉に従い、二人は綱條の傍に寄った。
彼は、眼を外の桜にやったまま呟いた。
「…桜は散り際が美しいと言う、その方らはどう思う?」
「私は、そう思います」
「私は、そう思いませぬ」
二人の意見が食い違った。
「ほう。渥美、思うところを聞かせてくれ」
早苗は、はっきりといった。
「花は、満開が一番元気な時でございます。力を最大限に出し、美しさを主張します。それ故、その時が最も美しいかと」
「そうか。…男にしては珍しい意見だ」
早苗はギクリとした。
ボソッと言った一言が引っ掛かった。
しかし、綱條は違う話題に入っていた。
「それが当てはまるなら、人間も死に際ではなく、生きている時が一番美しいということになるな」
「…それは?」
「…刃傷事件を聞いたであろう?」
「はい」
続きを期待した二人だったが、藩主は黙ったまま何も話は進まなかった。
耐えきれず、助三郎が切り出した。
「…浅野様は、如何相成りましたか?」
少しの間を置いた後、藩主は重い口を開いた。
「残念だが…」
二人は膝の上の両手を握りしめ、覚悟を決めた。
「今宵、切腹だ…」
藩主の思いがけない言葉に、二人は絶句した。
作品名:凌霄花 《第一章 春の名残》 作家名:喜世