凌霄花 《第一章 春の名残》
〈05〉松の廊下
遡る事その日の朝、ある男は天を仰いで呟いた。
「曇りか…」
それは播州赤穂藩藩主、浅野内匠頭長矩。
彼の呟きを傍で聞いていたのは、彼と同じ播州の龍野藩藩主、脇坂淡路守安照(*1)。
「浮かぬ顔だな。浅野殿」
「これは、脇坂殿…」
淡路守に、丁寧に挨拶をした。
先輩に当たる彼は、腕を組み空を見上げてこう言った。
「また奥方の事を考えておったな?」
その言葉に、照れた内匠頭は頭を掻いた。
言われた事は事実。
彼は正室、阿久里(*2)と仲睦まじかった。
美しく優しい彼女と幸せに暮らしていた彼の唯一の悩みは、子が出来ない事。
仕方なく弟(*3)を養子にしている。
その日、彼はある約束を彼女として来たばかりだった。
「羨ましい。俺のは嫉妬深くていかん」
彼は指で角がニョキッと出る仕草をして、内匠頭を笑わせた。
「そのような事おっしゃって、叱られますよ」
「あ、もっと角が伸びるかもしれん。おぉ怖い」
笑い合った後、内匠頭は大きな溜息をついた。
彼の心情をよく理解している淡路守は、穏やかに励ましの言葉を掛けた。
「…お役目お疲れ様。あとひと踏ん張りだ」
「はい…」
しかし内匠頭は酷く思い詰めた暗い顔になってしまった。
彼を元気付ける為、淡路守は自身の経験から語った。
「…俺もあの爺さん大嫌いでな。お役の時、何度張り倒してやろうと思った事か」
苦々しい顔を見て、内匠頭の顔は少し明るくなった。
「某だけが、嫌がらせを受けているだけかと思っておりましたが…」
内匠頭への執拗な嫌がらせは、日々悪化していた。
畳替えの一件もその一つ。
淡路守は続けた。
「どうやら苛めが生きがいになっておるようだ。高家の悲しい性かもしれんな…」
高家は大名に比べ石高が低い。
吉良家と浅野家のそれには大きく開きがあった。
旗本が『指南』という大義名分で大名に大きな顔が出来る。
もっとも、『指南』に対する『礼』を尽くせば良かった。
しかし、内匠頭は『礼』即ち『賄賂』を渡すことを家臣に認めなかった。
この事が、彼への苛めの原因の一つだった。
「…では、そろそろ支度に参ろう」
内匠頭は淡路守と別れ、支度部屋へと向かった。
少しの後、内匠頭は二人の近習に着替えを手伝ってもらっていた。
年長の方の男の名は片岡源五右衛門(*4)内匠頭お気に入りの家臣だった。
それ故、億さず忠告もできる。
この時も、主にずっと同じ事を念押ししていた。
「…殿、成らぬ堪忍、するが堪忍でございます」
「わかっておる」
もう一人の近習から扇子を受け取り、帯に差しこんだ。
「本日の儀式が終われば、お気持ちが楽になります。今少しの辛抱を」
内匠頭は、子どものようにふてくされた顔で溜息交じりに言った。
「わかった。吉良には辛抱する…」
「殿!」
指南役で、しかも年長の男を呼び捨てにする無礼を窘めた。
しかし、主は反省などしなかった。
「言っておくが、源五、俺は何も悪くない。悪いのは吉良様だ。指導もろくにして下さらないですぐに叱責する。理不尽だとは思わんか?」
「…それは、そうかもしれませぬが」
彼はいつも主の傍にいたので、良く分かっていた。
指導を請うため、訪ねて行っても何かしら理由をつけて面会さえほとんどできなかった。
それ故、内匠頭の不満も尤もだった。
「もう良い。それより、晩の花見の為に酒を用意しておいてくれ」
「はっ。心得ました」
阿久里とした約束は、花見だった。
屋敷の庭に咲く桜が満開。
妻の琴の調べを聞きながら、今夜は花見を楽しむ予定だった。
その楽しみを思ってか、内匠頭の顔はすこしばかり穏やかになった。
そして、支度を済ますと近習に告げた。
「頼むぞ。では、行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
主を送り出すと、部屋には近習二人だけ。
主の袴をたたみながら、源五右衛門は隣の男に声を掛けた。
「十郎左(*5)、殿のお気に入りの酒を買わねばならんな」
「はい。馳走も、用意せねばなりませぬな?」
そう言いながら、彼は主の為に用意した予備の衣装を奥から取り出し、眼の前に置いた。
「…片岡殿、これを使うことなど、あるのでしょうか?」
「まだ気を抜いたらいかん。もしもの場合があるからな」
その言葉通り、内匠頭は突然部屋に戻ってきた。
顔は酷く青ざめていた。
動揺している主と反対に、源五右衛門は穏やかに窺った。
「殿、いかがなされました?」
「…烏帽子大紋(*6)であった。…もう終りだ」
その時、内匠頭が身に着けていたのは熨斗目《のしめ》の着物(*7)に麻裃《あさがみしも》。
吉良から伝えられた服装のはずだった…。
しかし、待ってましたとばかりに源五右衛門は同僚に目配せし、先ほど彼が眺めていた着物、烏帽子大紋を差し出した。
「…これは?」
「このようなこともあろうかと、持参致しました」
不測の事態に備え、彼は手を打っていた。
内匠頭は喜び、近習に頭を下げた。
「源五、十郎左、本当にかたじけない! お前たちのおかげで、恥をかかずに済んだ!」
今にも泣き出さんばかりの震える声で、彼は礼を述べた。
家来二人も頭を下げ、部屋はしんみりとした空気が流れた。
「頭をお上げください。某は当然のことをしたまででございます」
「そうでございます。殿、早く御召し替えを」
「わかった…」
二人に促され、素早く着替えを済ませた内匠頭は、笑顔で二人に別れを告げた。
「行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
…これが、主従で言葉を交わした最後になった。
内匠頭は、指南役である吉良上野介義央を探していた。
しかし、彼はなかなか見つからない。
焦り、苛立ち、緊張、怒りが混じり合い彼の心は酷く荒れていた。
松の廊下(*8)で、彼の眼はようやく探す人物を捉えた。
素早く彼に近づき、挨拶をした。しかし、彼はそっぽを向きろくに挨拶を聞いてはいなかった。
苛立ちを覚えた内匠頭だったが、ぐっとこらえ本題に入った。
「お教え願います。勅使のお出迎えは、式台の上で致しますのでしょうか? それとも下でございましょうか?」
「…はて。ご自分でお解りにならぬか?」
「経験がござらぬゆえ…」
上野介は溜息をつき、余所を見ながら厭味ったらしくぼやいた。
「どうして近頃の若い方はご自分で考えようとなさらぬのかの? それに、なぜ柳沢様はこのような阿呆を勅使に任命されたのか…」
内匠頭は彼を睨みつけた
阿呆呼ばわりされた屈辱に、必死に耐えようとした。
唇を噛み締め、手を握り締め深呼吸をした。
すると、そこへ男が駆け寄って来た。
「あぁ。ここに居られましたか、殿」
「どうかしたか?」
上野介の家来らしき男が、なにやら手に持っていた。
「この文を…」
「少々失礼…。ふむ…」
文に眼を落した彼だったが、その眼が冷たく光った。
文を突然、内匠頭に見せつけた。
「そなたの奥方からこのような返歌が来ましたぞ」
「…返歌? なぜ?」
作品名:凌霄花 《第一章 春の名残》 作家名:喜世