凌霄花 《第一章 春の名残》
「…殿は、まさか?」
助三郎は思った。
主は『仇討ち』を望んでいる。
少し恐ろしさを感じていた彼の心情が表情に表れたのを、綱條は見逃さなかった。
「…武士には、そうあって欲しいのだ。泣き寝入りなどして欲しくは無い」
それは、武士として誰でも思うこと。
主を理不尽に失い、仇は無傷で生きている。
恨みを晴らすのが、武士としての忠義である。
しかし、同時に助三郎はある事に気付いていた。
主が異常にこの事件に肩入れする理由。
「…恐れながら、柳沢様の件も原因ではございませんか?」
恐る恐るそう窺うと、彼の思った答えが返って来た。
「それももちろんある。あの男の行為が間違っていたと言うことを、わしは知りたい」
その言葉の奥に、『柳沢失墜』という言葉を助三郎は感じていたが深く追求はしなかった。
大人しく、素直に命に従うことにした。
「…わかりました。…殿の御命に、従います」
助三郎の返事を満足げに見た後、水戸藩藩主は早苗を見た。
「…して、渥美はどうだ? この仕事、受けてくれるか?」
早苗は、ぎくりとした。
二人の様子をただ見守っていただけだった彼女は、突然の話題振りに驚いた。
しかし、同時に違和感が彼女に沸き起こった。
なぜ藩主は自分だけ、別に伺いを立てたのか。
しかし、深く考えず早苗は返答した。
「はっ。佐々木と共にお受けいたします…」
「二人ならば、心強い」
安心した様子の綱條だったが、再び表情は浮かない物に変わっていた。
庭へ向かって歩き出し、彼は手を虚空に差し伸べた。
その手に、ひとひらの淡い色の花弁がそっと降って来た。
それを見つめ、呟いた。
「…可哀想にな。まだ若いのに」
丁度その頃、身柄を田村右京大夫の屋敷に預けられた内匠頭が白装束を身に纏い、死出の道を歩み始めていた。
迎えに来た多門の後に続き、ゆっくりと歩いていると彼は突然歩みを止め、庭を見た。
「浅野殿、桜が見頃でございますなぁ」
その途端、『桜』という言葉に猛烈な罪悪感を彼は抱いた。
その日の晩の、妻との花見の約束を守れなかった。
ましてや、自分が無言の帰宅をすることになるとは、彼女にとって酷過ぎる。
大きな溜息をついた彼だったが、せめて妻が庭の桜を眺めてくれていたらと、桜を眺めた。
すると、風で散る桜の中に妻の顔が浮かんだ。
それは泣き顔ではなく、優しい笑顔だった。
しかし、彼は突然現実に引き戻され、桜の木の下のある物に釘づけになった。
「…お前は、源五!?」
桜の木の根元で、裃姿の男が涙を流していた。
それはまぎれもなく朝別れた家来、片岡源五右衛門。
彼は多門の計らいで、声を掛けぬという条件付きで最後の目通りを許されていた。
「…殿」
彼は最後に見る主の姿を必死に目に焼き付けようとした。
しかし、それは涙で滲んだ。
対する内匠頭も、涙をこらえ独り言のように言った。
「…約束を守れず、すまなかったな。皆に、阿久里と内蔵助によろしく伝えて欲しい物だ」
源五右衛門の涙は激しくなった。
嗚咽を漏らしながらも、彼は声を絞り出し返事した。
「…はっ」
その様子を見た後、内匠頭は寂しげな笑顔で呟いた。
「…さらば」
そして、庭から姿が見えなくなった。
「殿!」
後に一人残され、突っ伏して泣きじゃくる源五右衛門の上に、桜の花びらが静かに降り注いでいた。
風誘う 花よりもなお 我はまた
春の名残を いかにとかせん(*5)
桜吹雪の中、赤穂藩藩主浅野匠頭長矩の命は散った。
元禄十三年三月十四日の夜のことだった。
作品名:凌霄花 《第一章 春の名残》 作家名:喜世