凌霄花 《第一章 春の名残》
〈06〉春の名残
事件はすぐさま柳沢吉保の耳に届いた。
その瞬間、彼は感情を露わにして怒った。
「なぜこんな時に刃傷沙汰など!」
手にした扇子を圧し折り、畳に投げつけた。
主の怒りに恐れおののいた彼の家来は、慌てふためき周囲を走り回った。
折れた扇子の代わりを運んで来る者、茶を淹れる者…
しかし、当の本人はすぐさま怒りを抑え静かに皆に告げた。
「少しの間一人にしてくれ」
彼はそう言い残すと、狭い部屋に閉じこもりドカッと胡坐をかいた。
壁と睨めっこをしてなにやら考えた後、突然ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「ただでは済まさんぞ、赤穂の若造が…」
そして彼は部屋から出ると、まっすぐに主の元へと向かった。
「なんだと!?」
将軍綱吉も報告を聞くなり、驚きと不快感を表に出した。
そんな主に乗じ、吉保は先ほど考えていたことを口にした。
「…勅使の儀式は大切なもの。それを血で穢すとは言語道断」
「そうだ。大事な儀式であったのに。母上はさぞ嘆かれるに違いない…」
「いかにも。ましてや桂昌院様が忌み嫌っておられる殺生まがいの行為、許されるべきではございません」
大真面目にそう述べ、主の怒りを煽った。
すると、綱吉は声を荒げて言い放った。
「即刻切腹だ!」
吉保は、心の中でニヤリとした。
しかし、面は違う。
「…切腹でございますか? しかし、もう少し取り調べを行ってからでも?」
吉保は驚きの表情を浮かべながら言った。
彼の思い通りの方向に事は進み始めていた。
「情けは要らん。浅野は今日中に切腹、吉良は…褒美でもやっておけ」
「そうでございますか?」
最後の詰めで、やんわりと確認を取った。
すると、主は吐き捨てた。
「命令だ。浅野切腹、吉良咎め無し。問答無用!」
苛立つ五代将軍は、吉保の前から足音を立てながらを去っていった。
忠実な家来である彼は、行儀正しく頭を下げた。
「はっ。仰せのままに」
少しの後、顔を上げた彼は静かな部屋の中で怪しく笑い始めた。
「…これで良い。」
綱吉の弱みに付け込んだ作戦は、まんまと成功した。
おもしろくて仕方が無い彼は、笑いながら部屋の奥へと進み、いつも主が座る上座には腰掛けた。
そしてふんぞり返って広い部屋を眺めた。
「俺の天下だ…。俺の時代だ…」
政の実権を握っているのは、柳沢吉保。将軍のお気に入りも柳沢吉保。
彼に怖い物はもう無かった。
唯一の目のたんこぶ、なにかと口出しをしてきた水戸藩の老人はこの世にすでにない。
完全に彼の天下だった。
「さて、どれくらい儲かるものか…」
彼は『赤穂』で儲けるつもりだった。
赤穂藩を潰し、藩士を追い出し、領土を幕府の直轄地である天領に変える。
しかし、なぜたった五万石の領土で儲かるのか?
その答えは、赤穂では良質な『塩』が生産されるからであった。
塩の権利を幕府が牛耳れば、儲けることができる。
そこから得た富を政に使えば、国が潤う。
しかし、吉保はそんな男ではなかった。
「すべて、俺の物だ。俺にできない事は無い!」
再び高らかに笑い声をあげた。
権力の絶頂にある彼に、何も怖い物など無かった。
赤穂藩が彼の餌食となった。
屏風で囲まれた狭い空間に、内匠頭は座っていた。
少々疲れた様子は見えるものの、彼の眼は座っており佇まいは凛としていた。
そこから『刃傷沙汰の理由は乱心』と導き出せる筈はなかった。
そんな彼の取り調べを行ったのは、近藤平八郎(*1)と多門伝八郎《おかどでんぱちろう》(*2)。
神妙な様子で部屋に入り、深呼吸をすると口を開いた。
「御役目によって、言葉を改めさせていただきます。
…その方、本日松の廊下にて吉良上野介義央に刃傷。なにか理由があってのことか? もしくは乱心か?」
近藤平八郎が気乗りしない顔で、尋問した。
内匠頭は、はっきりと落ち着いた声で返答した。
「本日の刃傷は、恨みあってのこと。それがすべての理由でございます」
この言葉を聞いたとたん、近藤平八郎は驚き顔になったが、その隣の多門伝八郎は膝を進めて低く内匠頭に言った。
「…乱心では、ござらぬのか?」
「はい。決して乱心などでは御座いませぬ」
近藤は落ち着くと、多門を突っ突いた。
「少しお時間を頂く。…多門、ちょっと」
内匠頭を見張りに任せ、二人は廊下に出た。
途端に、近藤は困惑を口にした。
「…先ほど吉良殿は『何も恨まれるようなことはしておらん』と言っておった。どっちが本当だ?」
二人は上野介にも話を聞いていた。
困惑する近藤とは対照的に、多門は力強く言った。
「そこを調べるのが我らの仕事」
「だが…。恨みあってのことだと、厄介だぞ」
「恨みであろうと、乱心であろうと確かな真実を突き止めるのです」
「そうか?」
「では、そろそろ続きを」
二人は精一杯の努力をした。
念入りに話を聞き、一言一句漏らすまいと調書を取った。
しかし、事件の当事者である浅野と吉良の言い分の食い違いは消えなかった。
内匠頭は『恨みがあった』と淡々と述べ、上野介は『何も恨みは無い』と泣き言を言う。
どちらかが嘘をつき、どちらかが本当のことを言っている。
しばらく頑張った後、二人は内匠頭の前を辞し、別室で相談し合った。
「…結論は今日中には無理だ」
「そうでしょうな。このような事件は時間を掛けて取り調べねばなりません」
「どうする気だ?」
「…もう少し時間を取ってくれと、上に掛け合いましょう」
「そうするか?」
…しかし、『上』は待ってはくれなかった。
「切腹!?」
二人は吉保に呼び出されるなり、そう告げられ驚きのあまり声をあげた。
「上様の命だ。仕方あるまい」
彼は冷徹に言い放ったが、そこには哀れみの欠片もなかった。
それに億さず、多門は意見を述べた。
「しかし、短慮ではございませぬか? まだ調べが足りず…」
そのとたん、側用人は声を荒げた。
「浅野は即日切腹、吉良はお咎めなし。それで決定だ!」
「そのような…」
「浅野殿は田村殿(*3)に預け、そこで切腹。検死(*4)を滞りなく行うように」
そう業務命令を下すと、彼はその場を後にした。
残された多門は両手を強く握りしめ、歯を食いしばった。
「なぜだ? なぜ切腹など…」
己の力の無さを悔い、若い藩主を哀れに思った。
しかし、彼にできることは何も無い。
ただ、彼の最後を見届けるだけだった。
「佐々木。頼みがある」
綱條は、庭を見ながら低く言った。
助三郎は、間髪おかず返事をした。
「はっ。なんなりとお申し付けくださいませ」
彼は何の感情も込めず、形通り述べた。
主の命に従うのは、武士として当たり前。
しかし、家来のその言葉を受けた綱條は満足げに助三郎を見て続けた。
「では、赤穂の動向を見張ってくれないか?」
意外な言葉に、彼は驚いた。
徳川宗家に繋がる水戸徳川家の主が、西国の小藩ヘ肩入れする。
彼の頭をあることが過ぎった。
作品名:凌霄花 《第一章 春の名残》 作家名:喜世