凌霄花 《第一章 春の名残》
「そうだ。ちなみに殿は柳沢様を毛嫌いしておられる。今回の浅野殿切腹にも、柳沢様が一枚噛んでいるとおっしゃっていた」
「で、取り潰しは間違いないと?」
「あぁ」
「取り潰しになるのはほぼ確定。だけど、それで仇討決行って流れになるかはわかりませんぜ」
「そうだよな…」
一同は溜息をついた。
しばらく沈黙が続いたが規則正しい寝息が聞こえた。
それは会議の一員、クロの物だった。
犬には難しい話が続き、耐えきれずに眠ってしまったのだった。
可愛らしい寝姿に一同は癒された。
これが思考回路の活力源となったのか、動きが見えた。
「助さん。一度江戸に戻っていいですかい?」
「そうだな。殿に報告が要るしな」
「では早速行って来るんで、お銀よろしく」
突然立ち上がり、玄関へ向かう弥七にお銀は驚いていた。
「え? 今すぐ行くの?」
「当り前よ。善は急げってね」
弥七はその言葉通り、すぐに姿を消した。
部屋に残されたのは早苗、助三郎、お銀そして眠り続けるクロ。
一人抜けた所で、新たな作戦会議に移ることになった。
しかし、二人はすぐさまお銀から仕事を振られた。
「あなた達に明日からしてもらう事は、逢引きね」
「は?」
お銀の突然の言葉に二人の眼は点になっていた。
商談かと思って受け流そうとしたが、彼女は真面目に続けた。
「今後、どう転ぶかわからないでしょ?」
「どういう意味だ?」
「あなた達の話が当てはまるなら、お家存続が決まったら、あなたたちの密命は無くなる。
でも、お取り潰しだったら…。気が遠くなるほど長い仕事になる」
その通りだった。
『仇討』と一言に言ってもそんなに簡単な物ではない。
何年も駆けて仇を取った話もあれば、出来ずに終わる悲しい話もある。
改めて二人は藩主から受けた密命の重大性を感じた。
結局二人は『逢引き』の仕事を受けることにした。
早苗も、少し嬉しそうな助三郎の顔を見てまんざらでもなかった。
その夜、お銀は早苗を風呂に呼んだ。
二人で湯に浸かっていると、お銀は真面目な顔で早苗に話し始めた。
「…今回のお仕事、本当に長くなるかもしれないわ」
「はい」
「だから、これだけは守ってちょうだい」
「なんですか?」
「毎日早苗さんに戻ること。要はね、一日のうち一時でもいいから、必ず夫婦で居るってこと」
早苗はそれを守れていなかった。
江戸を出てから数日、一度も夫の前で女に戻ってはいなかった。
「仕事だからって言って、ずっと男だとダメですよね?」
根を詰めすぎ、精神を病んだ経験が彼女にはある。
二度とあのような事を起さないよう、気をつける心構えはあった。
「わかってるなら、それで良いわ。お互いに息抜きは必要だからね」
「はい」
早苗は先輩の助言を守ろうと心に決めた。
次の日の朝早く、隠れ家の玄関には女の姿に戻った早苗と助三郎が居た。
嬉しそうに早苗を見詰める助三郎をお銀は笑い、からかった。
「動きがあったら連絡するわ。だからそれまで思う存分イチャイチャして来なさいね」
「冷やかすな!」
赤くなりながら助三郎はお銀を軽く睨んだ
お銀はそれも笑って受け流した。
「では、お土産期待してるわ。行ってらっしゃい」
夫婦は『逢引き』という幸せな仕事に出かけた。
作品名:凌霄花 《第一章 春の名残》 作家名:喜世