凌霄花 《第一章 春の名残》
彼も彼女と同じように亡き主を思っていた。
共に過ごした時間は、早苗より長い。
一緒に酒を飲み羽目を外し、早苗に叱られた旅の思い出。
仕事で失敗して酷く叱られた苦い思い出。
いい事も悪い事もすべてが懐かしかった。
亡き主を偲び、一つ小さな溜息をついた。
しかし、彼の気持ちの切り替えは早かった。
「二人とも、そろそろ帰ろう」
いつまで居ても悲しみが増すだけ。
そう思い彼は腰を上げた。
「お先にどうぞ。少ししてから行くんで」
弥七は再び手裏剣を触っていた。
ギョッとした助三郎だったが、彼は彼の事情があると割り切り、同僚に声を掛けた。
「格さん、帰ろう」
二人は混乱と悲しみに包まれた赤穂城を後にした。
小気味良い包丁の音と、美味しそうな匂いに釣られ、助三郎はフラフラと寝床を出た。
それは寝坊助な彼にはとても珍しい事。
彼はいつしか台所に来た。
そこには、女の姿が。
手際良く朝餉を作る妻に見惚れ、彼はフラッと近寄り、幸せそうにその姿を眺めた。
「…早苗だ」
彼女を背後からギュッと抱き締めた。
「…早苗」
しかし、何かがおかしかった。
抱き締めたその身体は、異様に硬かった。
「…あれ?」
妻がこんなにゴツゴツしていた筈はないと、彼は再び抱き締めた。
しかし、柔らかさを取り戻すどころか、よりゴツゴツした感触が伝わって来た。
おかしいと思いながらも、身体を離さない彼だったが、耳に届いた低い声で現実を把握した。
「…助さん、さっきからなにやってる?」
「え?」
見ると、彼が抱き締めていたのは、早苗ではなかった。
襷掛けし、手に菜切包丁を握りしめた呆れ顔の男だった。
助三郎はすぐさま身体を離し、弁明を試みた。
「…ち、違うんだ。寝惚けただけだ!」
平手打ちが飛んで来るのを恐れ、身構えた。
しかし、早苗は上機嫌だった。
再び朝餉の支度の手を動かしながら、彼に話しかけた。
「珍しいな。一人で起きて来るなんて」
「え?」
叱られない、手が飛んでこない、睨まれない事に驚いた助三郎はポカンと立ち尽くした。
その彼の開いた口の中に、早苗は卵焼きを一切れ押し込んだ。
「ほれ、褒美だ」
「…ん?」
「どうだ?」
優しい甘さ。
助三郎が作る菓子の様に甘い物とは格段の差がある。
「…美味い」
それはいつもと変わらない、早苗の卵焼きだった。
しかし、作り手は男の姿…。
「よし、助さんこれをそっちに持って行ってくれ。弥七とお銀はもう食べたから、二人分で良いぞ」
「了解…」
助三郎は素直に朝餉の準備を手伝った。
「はぁ…」
助三郎は茶碗を片手にこっそりと溜息をついた。
「やっぱ、我慢しすぎたかな?」
寝ぼけ眼で見た妻の幻は欲求不満の成せる技。
そう信じた助三郎は、溜息を再びついた。
朝からあまり元気のない夫に早苗は気付いた。
「我慢って、なんの我慢だ?」
「…なんでもない」
男の我慢がなんたるや、見せかけだけ男の早苗にはわかる筈が無い。
それは、助三郎の悩みの種だった。
親友の『格之進』にできない唯一の相談が『男の悩み』
男の助三郎から見ても、『渥美格之進』は良い男。
頭は良い。腕は立つ。女が放っておかない男前。
しかし、その彼が本当は男ではなく、自分の大事な可愛い妻。
そのことに彼は何度目かわからない疑問を抱いた。
「…早苗と格さんが一緒だなんて、やっぱりおかしい」
作る味噌汁は全くもって早苗と同じ。
先ほど口に突っ込まれた卵も一緒。
違うのは姿だけ。
早苗と格之進が分裂し、『格之進』が本物の男になって欲しいとこっそりと願った。
そうすればより深い友達関係を築ける。
そう信じてやまない助三郎だった。
その日の昼、お銀から報告があった。
赤穂藩の藩札の交換が始まったという物。
二人は疑問を口にした。
「赤穂藩は、取り潰しってことか?」
「大石殿は、そう見込んでいるみたいだな」
藩の中でしか使えない藩札。
これが赤穂藩が潰れる事で紙屑同然になってしまう前に、銀に変える。
混乱に乗じて踏み倒す事も出来なくはないにも関わらず、それを行う内蔵助に、早苗は感心した。
「やっぱり、『昼行燈』殿ではないみたいだな」
すると、先日『昼行燈』と言った張本人のお銀が、内蔵助を褒め始めた。
「すごいのよ。ケチケチ大野さまが猛反対したんだけど、それを押し切って満額の六割で交換ですって」
「…すごいな」
早苗は改めて大石内蔵助の人となりに感心した。
彼女が面白そうにお銀と話している傍で、助三郎は立ち上がった。
「俺はちょっくら偵察がてら散歩行ってくる」
彼は、まだ見ていなかった町人たちの『藩主切腹』に対する反応が見たかったのだった。
早苗は彼を送り出すと、部屋の隅の机に座り、荷物から取りだした帳面を開いた。
「なにするの?」
覗き込んだお銀に、早苗は快く答えた。
「日誌だ。今回はちょっと分厚い帳面にしたんだ」
嬉しそうに話す彼女に、お銀は笑った。
「…好きねぇ。面白い?」
「好きって言うよりも、日課だな。後で絶対役に立つし、何年か経って見返すと色々思い出せておもしろい」
彼女の言葉を聞いた後、お銀はなぜかにんまりとしていた。
「ふぅん…。でも、一番最初に書いたのって、『助三郎さま観察日誌』でしょ?」
「…違う!」
それは嘘ではなかった。助三郎の眼に着く行動が多く書き綴ってある。
早苗は猛烈に恥ずかしくなって、お銀に喰ってかかった。
しかし、彼女はそんなことに動じない。
「恥ずかしがらなくて良いでしょう。愛しの助三郎さまをずーっと見守っていた証なんだから」
「知らん!」
早苗は恥ずかしさを紛らわせるべく、墨を摺り始めた。
力任せに…。
「あぁ…。そんなにゴリゴリ摺ったら、墨が無くなっちゃうわよ」
その日の夕方、四人となぜか一匹が額を寄せて会議を開いた。
議題は、『赤穂藩は潰れるか』
「…殿様が喧嘩しただけで改易になりますかい?」
弥七が疑問を投げかけた。
「だが、相手の吉良様が死んでないのに、浅野様は切腹だ。極刑だぞ。なにがあってもおかしくない」
助三郎が答えた。
お銀からも質問が。
「だけど助さん、浅野様には後継ぎの弟さんが居るんでしょう? お取り潰しまでとは行かないじゃないの?」
「…そうだな。大学様が居るからな。でもなぁ…」
「だよなぁ…」
早苗と助三郎は『改易』という予想をしていた。
「なに? なにか考えてるなら、言って頂戴」
唸る二人にお銀がけし掛けた。
その彼女に、早苗が答えた。
「…殿が、『仇討ち』を望んでおられるからだ」
「って事は…?」
「仕える藩を無くした武士は浪人になる。縛る者も、責任を感じる物も無くなる。…そうしたら、やりやすいだろ?」
「そういうことなのね…」
早苗の話に助三郎が補足した。
「当代の上様になって、潰された藩はかなり増えたろ?」
「…柳沢様の影響ですかい?」
作品名:凌霄花 《第一章 春の名残》 作家名:喜世