凌霄花 《第一章 春の名残》
「ふうん。でもさ、宮本武蔵は憧れる。文武両道、芸術も嗜む。凄い人だ」
いかにも彼らしい言葉だった。
「そうなりたい?」
「あぁ。剣の腕をあげて、もっと仕事を真面目にやって…」
早苗は向上心が強い夫に、感心した。
少年のように眼を輝かせて己の夢を語る彼を見た彼女の心は、全身全霊で応援したいという気持ちでいっぱいになっていた。
宿へと帰る道すがら、助三郎はやたらきょろきょろする妻が気に掛かった。
「…どうした?」
「ううん。なんでもない」
「…そうか?」
「早く宿に帰りましょ!」
早苗はギュッと夫の腕に抱きつき、宿まで離れなかった。
…そのせいか、宿での夕餉はクロが眼を前足で隠すほどのイチャイチャぶりだった。
しかし、どうしてかこの少し変わった夫婦の間の甘い雰囲気は、長い間続かない。
早苗はベッタリくっついていた夫に、風呂に入ることをしきりに勧めた。
それを、妻からのお誘いだと思った助三郎は意気揚々と汗を流しに風呂へと消えた。
クロも他の部屋で寝てしまい、部屋には誰もいなくなった。
そして、早苗は計画を実行に移した。
「ごめんね、助三郎さま。…俺一人で行ってくるからさ」
早苗は男に姿を変え、暗闇へと消えた。
目的の地に着くや否や、早苗は背後に殺気立った気配を感じた。
それが何ものなのか探ろうとした矢先、声が掛けられた。
「…格さん」
その聞き覚えのある声、呼び方に振り向くと、それは助三郎だった。
風呂上がりらしい浴衣姿の彼の顔は怒っていた。
「…あ、風呂上がったのか?」
助三郎は何も言わなかった。
口がへの字に曲がったまま。
「…湯冷め、するぞ。風邪ひくと大変だろ?」
ようやく彼は口を開いた。
「…なんでこんな夜に出歩く?」
「ちょっと用事が…」
早苗は夫の眼を見ずそう言った。
しかし、あまりにも怖い彼の眼に、声がよく出なかった。
「なんの用事だ?」
表情が穏やかにならない彼からの質問に、早苗は思いついたことを口にした。
「…お、男にはいろいろあるだろ?」
誰かさんが良く使った言い訳。
胸を張ってそれを真似て言ってはみたが、それを使ったことのある本物の男は容易く見破った。
「格さん、それはお前には絶対使えない良い訳だ」
「…なんで?」
「だってお前、女買えない、博打は金が勿体無いから出来ない、酒は一人で飲まない。だろ?」
すべて正解。
ウソがばれた早苗は打つ手が無くなり、溜息をついた。
すると、助三郎は無茶な妻を叱った。
「抜け出すなら、俺みたいにもうちょっと上手い言い訳を考えろ」
「…わかった。ん? お前、反省してなかったんだな?」
夫の言葉を逆手にとって逃げようと彼女は試みた。
しかし、上手くいかず。
「…そんなことより。抜け出した本当の理由は?」
二人の攻防戦が始まった。
「ちょっと見たい物が有ったんだ…」
「だったらなんで昼に来ない?」
「…昼じゃ、無理そうだから」
「そんな物があるのか?」
「ある」
「なんだ? それは」
「言うと、お前が可哀想だからやめとく…」
「はぁ?」
早苗はいつになく厳しい夫に、ご機嫌伺いを立てた。
「…怒ってる、よな?」
「当たり前だ。意味が全くわからん理由で抜け出したんだから」
助三郎は大きな溜息をついた。
「…仕方ない、一杯飲みに行こう」
その誘いに早苗は渋った。
「でも…」
「なんだ? 何がしたい? はっきり言え」
助三郎はとうとういらだちを見せ始めた。
怖い夫を見たくない早苗は、本当の目的を言うことにした。
「…一枚、二枚って知ってるか?」
そう言ったったん、助三郎の顔には焦りの表情が浮かんだ。
「…し、知らん!」
「…ほら、怖がる。だから黙ってたのに」
「キライなだけだ!」
本当の怖がりな旦那を笑い、早苗はちょっと彼をいじめた。
「あ、あそこになんか居る!」
「イヤだ!」
助三郎は早苗にヒシと抱き付いた。
夫に抱き締められるのは大歓迎な早苗だったが、しがみつかれるのは好きではなかった。
夫のみっともない格好を見たくなかったのだ。
「…なんだよ。しがみつくなよ」
イヤそうな顔をすると、助三郎も嫌味を言った。
「やっぱり、柔らかい早苗が良い…」
その彼にすかさず反撃した。
「俺だって、ゴツイお前より美帆にキャーってくっつかれたい」
「美帆なんかいない!」
「…義兄上、早く私のところにあれを戻してくださいよ」
『格之進』の可愛い『妻』
彼女が助三郎に戻ってから一度も顔を見ていない。
本人は二度となりたくないと拒み続けた。
しかし、早苗の中の『格之進』が彼女を忘れることはできなかった。
早苗が助三郎を思うのと同じ強さで、『格之進』は『美帆』を想っていた。
いつか、いつかと、『格之進』は機会をうかがっていた。
「うるさい! こういう時だけ義弟面するな!」
二人はおバカな口喧嘩を始めた。
この二人を女が見ていた。
「…何をなさっているのです?」
「口喧嘩ですので、お構い無く」
しばらく二人を無表情で眺めていた女はある事に気付いた。
「…夫婦喧嘩ができてうらやましい。…でも、じきにできなくなる」
妙な言葉に早苗はドキッとした。
女は憐れむ様子で早苗を眺めた。
そして、その女は行燈も持たず、暗闇へと消えた。
すでに喧嘩はどこへやら。
早苗の興味は、消えた女に移っていた。
「…助さん。あの人、お菊さんかな?」
眼を輝かせる妻に助三郎は焦った。
「…なら、今すぐ帰るぞ!」
「…なんで?」
「わからないか!? あれがお菊さんなら、殺された幽霊だ! たかが皿一枚で殺された恨みが有る女だぞ!」
わめく怖がりな夫を笑い、冗談半分に言った。
「…そんなに心配ならついて来てくれ」
助三郎から返って来たのは意外な言葉。
「…わかった。ついて行く」
これに早苗は驚いた。
「…大丈夫なのか? 怖くないのか?」
助三郎は少し顔を赤らめ、ぼそっと言った。
「…お前を失う方がずっと怖い」
早苗はドキッとした。
恥ずかしさと嬉しさに頬が熱くなった。
「…ありがとう、助三郎」
たまらず、助三郎に抱きついた。
昼間にいちゃいちゃしすぎて、男を演じようという気持ちがすっかり失せていた。
ギュッと抱き締め夫に囁いた。
「…大好きだ」
しかし、男の『親友』に怪力で締め上げられ、低い声で甘い言葉を囁かれても、助三郎はあまり喜べなかった。
何より、苦しい。
「…く、苦しい。…死ぬ」
夫の蚊の泣くような悲鳴に早苗は気付き、身体を離した。
「あ、すまん!」
「久しぶりに死ぬかと思った…」
息を整える夫に、早苗は喝を入れた。
「まだ死んだらダメだ!」
助三郎はすぐに立ち直った。
「わかってるよ。早苗と一緒に寝るまでは死ねんからな!」
二人は『お菊』を追うために、暗闇へと足を踏み出した。
作品名:凌霄花 《第一章 春の名残》 作家名:喜世