凌霄花 《第一章 春の名残》
〈11〉怨念
二人は女を追った。
女は、月明かりに照らされている場所で佇み、早苗を見ていた。
距離が近くなるや否や、女は物凄い形相で助三郎を睨んだ。
「来るな!」
あまりの恐ろしさに睨まれた助三郎は足を止めた。
氷のような眼差しと声。
しかし、早苗に対するものは違った。
「…用が有るなら、そこの女子だけ。男は来るな」
「…早苗、行くのか?」
妻が自分の手の届かない所へ行く恐怖、幽霊を眼の前にした恐怖。
その二つに押しつぶされそうになった。
彼は『行かない』という答えを切に願った。
しかし、彼女が言うわけがない。
「…行く」
助三郎は縄で縛ってでも連れて帰りたかったが、妻の意思は固かった。
「…調べたいんだ。お菊さんがどうして殺されたのか」
「そんなこと…」
「…御老公の遺志でもある。この国の歴史を調べ、まとめる事。それに役立つかもしれないだろ?」
「それも、そうだが…」
「それにな、あの人が俺に言った言葉の意味を知りたい…」
「…どうしてもか?」
「…あぁ、どうしてもだ」
妻の硬い意思に、助三郎は折れた。
しかし、己の命に変えても妻を守ると誓った決意は変わらなかった。
「…魔除け、ちゃんと持ってるか?」
それは結婚前に彼が早苗に持たせた御守りだった。
常人がどう頑張っても退治できない、助三郎自身も捕らわれかけた人成らぬ者から彼女を守るための物。
早苗は夫を安堵させるため、それを見せた。
「…いつでも持ってる。お前のくれた魔除けだ。絶対大丈夫」
助三郎は彼女のその笑みを信じた。
「気をつけるんだぞ。無理だけはするな」
「わかった。行ってくる」
早苗は一人、女に近寄った。
やはり、女は人ではなかった。
「…わたしに、何用ですか?」
「お菊さんに、お話しが聞きたくて」
「…わたしの名を?」
「…有名ですから」
悲しそうな笑みをうっすらと浮かべ、お菊は言った、
「…そうですか。では、聞きたいのは皿の話?」
「はい…」
「皆それを聞きたがる…。皿など見たくもない…」
「それは…?」
意外な言葉に、早苗は興味をさらに抱いた。
お菊は悲しみを湛えた眼で何処か遠くを見ていた。
「あの男の父親がわたしを嵌めるために皿を使っただけ」
「…あの男?」
お菊は遠くを眺めたまま語り始めた。
「あの男は、最初は本当に優しかった…。わたしを好いてくれた…」
お菊の優しい声を聞いた早苗は、遠くで自分を見守る助三郎を眺めた。
恐怖に耐えながらも、そこに居続ける夫に心の中で感謝した。
「…『お前以外は要らない』そう言ってくれた」
しかし、そこでお菊の声は悲痛な物に変わった。
「…すべては、身分のせい。わたしが、下女だったばっかりに」
早苗は『身分』という言葉にどきりとした。
彼女の先祖は忍び。その血を引くからこそ、男に変われる。
時たま脳裏をよぎる『身分』という言葉。
今、その身分こそ士分で夫と一緒だが、実家の家格は嫁ぎ先より低い。
早苗の心の隅にあるこの影の部分をお菊も持っていた。
さらに、彼女はその辛さを身をもって体験したようだった。
早苗は、お菊の話に耳を傾けた。
「…ある時、あの男に見合いが来ました。しかし、あの男は断わった。…わたしを妻にすると言って」
お菊は続けた。
「…一番幸せだった。…赤子もできた」
意外な言葉に、早苗は驚いた。
下女と武家の男の恋愛。すなわち、悲恋。
「…打ち明けたら、あの男は喜んでくれた。でも」
「…でも?」
悲しい笑みをたたえ、お菊は早苗に言った。
「下女とまともに結婚するお武家がどこにいます?」
「確かに…」
「わたしは邪魔以外の何物でもなかった」
次第にお菊の声には怒りが含まれ始めた。
「それ故、わたしたちの関係に気付いたあの男の父親が、わたしを亡きものにしようと画策したのです」
「…皿と、どのように関係が?」
「わたしは、道具の管理の仕事をしていました。そこに目を付けられて…」
「…お皿を、細工したのですか?」
「そう。ある日突然、『家宝の皿が一枚無くなった。お前のせいだ』と問い詰められ…」
それは早苗が聞いたことのある話。
しかし、それが直接的なお菊の死因ではなかった。
「わたしはそんなことと関係は無かった。でも、あの男は父親には逆らえない。それで…」
早苗は悲運なお菊を憐れんだ。
愛する男の手にかかって殺される気持ちは、彼女には想像できなかった。
「『すまん』それがわたしが最後に聞いたあの男の言葉…。わたしはその時許しました。身分違いの恋に道はない。あの人の本当の幸せのためには、この身は要らない。死んでも、わたしはあの男に愛され続けるって信じていた…」
悲しい恋の結末に早苗は涙しそうになった。
しかし、恐ろしい笑みを浮かべたお菊に、その涙は止まった。
「…わたしがなんでこうやって彷徨っているかわかる?」
早苗は嫌な予感がしたが、あえて答えなかった。
「あの男を恨んで殺したせい…」
「殺した…?」
恐ろしい言葉に、早苗は身をすくませた。
お菊は面白そうに話し始めた。
「わたしが死んだ次の夜、あの男は祝言を挙げた」
「…いきなりですか?」
「そう。おかしいでしょう? あの男は嘘つきだったの…」
「嘘つき?」
「そう。嘘つき。祝言の席であの男は笑って言った。『腹の子諸とも処分してやった。やっぱり、身分の有る女と結婚するのが得だ。父上の策略はうまく行った』って」
とんでもない男の話に、早苗は愕然とした。
お菊は怨念のこもった眼差しで話を続けた。
「『お前以外は要らない』毎晩そう囁やいた言葉は口から出まかせだった」
「憎くて憎くて、あの男を愛する気持ちは一気に消え失せた。それで、気付いたら、一族もろとも殺していた…」
さすがの早苗も、恐怖と絶望、恨みに満ちた血みどろの話に耳をふさぎたくなった。
しかし、聞いてしまった。
「毎晩恨み事をあの男の傍で言った。そうしたらあの男は、気が狂っていった…。そしてある闇夜の晩、あの男は新妻に手に掛けた…」
彼女は面白そうに笑った。
そして、清々した表情で言い放った。
「ある雨の激しく降る晩に、実の父親も斬り殺した…」
最後にお菊は懐かしそうな眼差しで言った。
「そして最後の月夜の晩、あの男はわたしに気付いた…。そしてまたわたしに同じことを言ったの。
『…すまん』って」
「…それで?」
どうにか早苗は声を出した。
「許すわけないでしょう?」
お菊は恐ろしい眼で結末を語った。
「あの男は勝手に腹を斬った。苦しみ悶えて血溜りの中死んでいった。それでおしまい」
絶望や悲しみを通り越し笑みを浮かべる彼女が早苗は恐ろしくてたまらなかった。
女の怨念より恐ろしいものはこの世にない。
お菊は少し落ち着くなり、早苗を見つめて言った。
その表情は彼女を憐れむものだった。
「貴女も、お気をつけて…」
「…どうして?」
「貴女も同じだから…。わたしと同じ…」
恐ろしい言葉に早苗の声は震えた。
作品名:凌霄花 《第一章 春の名残》 作家名:喜世