凌霄花 《第一章 春の名残》
「…そうじゃ。早苗に戻ってくれんか? …戻ってくれたら、良くなるかもしれん」
『格之進』よりも『早苗』を求める主に早苗は笑った。
そしてその望み通り彼女は元の姿に戻り、主に微笑みかけた。
「…ご老公さま。どうですか?」
すると、光圀はムクリと起き上がり、早苗の顔を眺めた。
そして笑み浮かべた。
「だいぶ良くなった。お前さんの顔を見たおかげじゃ。助三郎はズルイのう…。毎朝眺めおって…」
「そのような御冗談を…」
少し拗ね始めた主を笑ってから、早苗は優しく言った。
「早くお元気になってください。そして、また旅に参りましょう」
しかし、光圀はいつものように乗り気ではなかった。
さっき浮かべた笑みは消え、再び深刻な顔になっていた。
「…いいや。もう、お前さんも助三郎も旅に出てはいかん。」
意外な言葉に、早苗は驚き光圀を見つめた。
「…なぜですか?」
すると彼は穏やかに言った。
「これからは夫婦らしく、ゆっくり国で過ごしなさい。それにな、もうワシも旅はせぬことにした」
「そんな…」
再びの主の発言に動揺した早苗は、元気づけようと考えた。
しかし、その心配はなかった。
「なにしろ、もう行くところが無くなった。ハッハッハッハ」
「あ、そういえば…フフフ」
その言葉通り、行っていない所は無くなっていた。
光圀はしみじみと呟いた。
「三年か…。三年で回れるとは思わなんだな。最初はお前さん、助三郎と結婚してはおらなんだ」
「はい」
「本当の姿を隠して…。大変じゃったなあれは?」
「はい」
「知らない助さんが素っ裸でお前さんが入っている風呂に押し掛けて…」
「ご老公さま! それは言わないでください!」
二人は思い出話に花を咲かせた。
しばらく話した後、光圀は真面目な顔で言った。
「…助三郎を生涯支えてやってくれ」
「はい」
「…子も諦めたらいかん」
「え?」
突然の言葉に、早苗は驚いた。
ついに主の口から『子』という言葉が出た。
「…お前さんはまだ十分すぎるほど若い。絶対に諦めるでない。親戚にも屈するでない」
子どもが出来ない早苗は、不安が募っていた
しかし、その不安は誰にも言えない物になっていた。
それ故、光圀の言葉は重く早苗に響いた。
「…助三郎とお前さんの血を受け継ぐ優秀な人材を水戸に残してくれ」
期待の込められた言葉に、早苗は圧され苦しくなった。
しかし、返事はした。
「…はい」
そんな彼女の様子を見て、光圀は付け足した。
「…気負ってはいかん。お前さんは真面目すぎてすぐに気負う。それで精神を病んだら元も子もない」
「…はい」
「気長に励め。…まぁ、子作りは楽しいじゃろ?」
最後の最後、おかしな言葉に早苗は真っ赤になった。
早苗が帰った部屋に、今度は年配の男が居た。
それは早苗と助三郎の上司でもある男、後藤だった。
「後藤…。紙と筆をここへ…」
「はっ」
「あれに、言い残しておかねばならん。あの者の事を…」
光圀は水戸藩藩主に文を書き始めた。
冬の寒さが厳しくなってきたある日の夕方、早苗は帰宅した夫に光圀の様子をうかがった。
「どうだった?」
「お加減が良くなってきたそうだ。年内に床払いできるといいが…」
「よかった…」
助三郎はあることを思い立った。
「明日二人で見舞いに行こうか?」
「うん」
「…あ、でもまた『仕事しろ!』って怒られそうだ。俺は格さんが居ないと怒られてばっかだ…」
それはある意味正しかった。
『格之進』が出仕をしていれば助三郎は仕事に集中する。
同年の同僚が居ることで張り合いが出て、やる気がでる。
もっとも、格之進が怖いというのもあったが…。
「助三郎さま、ちゃんと仕事してるじゃない」
すると突然助三郎は早苗の手を取った。
珍しく、はっきりと早苗に己の気持ちを伝え始めた。
「…それはお前のおかげだ。お前が居るから俺は頑張れる」
ドキッとした早苗は、彼に聞いた。
「…それって、どっち? わたしか弟か」
「両方だ。どっちも俺の大事な人だ…」
助三郎の顔が早苗に近づいていた。
早苗は眼を瞑り、夫を待った。
しかし、丁度その時人が走ってくる音が聞こえた。
ハッとした二人は眼を開け、耳を澄ませた。
足音は二人の居る部屋の前で止まった。
足音の主である下男は息を切らし、畳にひれ伏した。
「旦那様! 火急の知らせにございます!」
「…どうした?」
「ただいま、後藤様から使いが参りました」
助三郎は胸騒ぎを覚えた。
「…何かあったのか?」
おそるおそる彼が窺うと、下男は項垂れた。
そして弱弱しく、告げた。
「…御老公が、お亡くなりに」
夫婦はしばらく放心状態だった。
だが、早苗がポツリとつぶやいた。
「…どうして? …良くなってきたんじゃないの?」
「…確かに、そう聞いた。…どうしてだ?」
二人で『どうして?』としばらく言い合った後、早苗が立ちあがった。
「…確認しましょ。ここでああだこうだいってもしかたないわ」
「そうだな。その通りだ。今すぐ行こう」
早苗は格之進に姿を変え、助三郎と共に西山荘へと向かった。
途中、千之助を呼び出した。
「助三郎兄上に格之進兄上、お二人ともどうなされたのですか?」
彼は婿に入り、水野の姓を名乗っていたが、元は助三郎の妹、千鶴だった。
婿入りの際、光圀から受けた恩は少なくなかった。
それ故、西山荘への御供に加えることにした。
「…御老公が亡くなったと知らせが入った」
助三郎が手短にそう告げると、千之助は驚いて声を上げた。
「え!? 本当ですか!?」
彼を、早苗が制した。
「静かに! まだ確認が取れていない。これから行って確かめる。いいか?」
「はい」
知らせが来て数刻後、三人は光圀の前に居た。
…すでに彼はこの世の者ではなかった。
眠っているような主を目の前に、彼らは言葉を無くしていた。
そんな彼らを前に、後藤が静かに口を開いた。
「…お前たちには早々に知らせた方がいいと思ってな。藩には明日公にする」
少し立ち直った早苗は一言聞いた。
「…御最後は?」
「…眠るように逝かれた。お前たちを案じながらな」
「そうですか…あの、最後の別れをお許し頂けませんか?」
「許す。それぞれ気の済むまですればよい…」
早苗は女に戻り光圀に誓った。
「ご老公さま。必ず水戸藩の力になります。見守ってください…」
数日後、光圀の葬儀が終わった。
西山荘には主はおらず、早苗と助三郎だけがぽつんと立っていた。
がらんとした部屋を見渡した二人は溜息をついた。
「…帰るか」
「…あぁ」
互いに何も話さず、ただとぼとぼと歩いた。
二人で冷えた夕食を食べ、早々に寝所に戻った。
しかし、助三郎は早苗が気がかりだった。
姿が男のままだったからだ。
「…大丈夫か?」
「…なんで?」
「…その、格さんだから」
「ちゃんと戻れるから心配するな。」
作品名:凌霄花 《第一章 春の名残》 作家名:喜世