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凌霄花 《第一章 春の名残》

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 彼は、二人に感情を抑えた声で言った。

「殿が御見えになります」

 二人は口喧嘩を止め頭を下げた。
そして、少しすると声が掛かった。

「苦しゅうない。面を上げよ」

「はっ」

 二人はこの時、自国の藩主、徳川綱條(*2)と初めて対面した。
彼等は、綱條に亡き主の面影を見出そうとした。
 しかし、息子ではない。血は甥なので繋がってはいるが、あまり似ていない。
 二人は少しばかり落胆した。

「…すまんな。忙しくて、遅れてしまった」

「いいえ…。滅相も…」

 恐縮していると、藩主自ら正座を崩し、二人にこう告げた。

「まずは、その方らに礼を言う。義父上の旅の供、ご苦労だった」

 この言葉で、元お供二人の脳裏に数々の旅の出来事が浮かんでは消えた。
楽しい思い出、悲しい思い出、つらかった思い出、様々あった。
 その中すべてに、光圀がいた。
 しかし、その光圀はもういない。
 改めて、喪失が大きかったことに気付かされた二人だった。


 その日は、時間が許す限り三人で光圀の思い出話を語り合った。
忙しい綱條は、二人の話で気分転換が多いに出来たようで満足そうに部屋を後にした。

「また、話を聞かせてくれ」
 
 



 数日間、二人は藩主の話し相手をしていた。
今回の仕事は、ただそれだけだった。
 綱條は、諸国漫遊の話に夢中になった。
 江戸から出た事のない彼は、二人の話を熱心に聞いた。
その一方で、彼は二人に国の将来について語ることも多々あった。
 
 そんなある日、綱條は大層疲れた様子でやってきた。
話の中である男が出てきた。
 その名前を聞いた二人はピンと来た。

「…柳沢様でございますか?」
 
 助三郎が確認を取ると、綱條は苦々しく吐き捨てた。

「様など付けんで良い。あのような小さい男…」

 そんな姿を眼にした早苗と助三郎は顔を見合わせた。
イライラした様子の藩主は、話を続けた。

「…あの男は、義父上が無くなってからやりたい放題だ。
上様や御生母、桂昌院(*3)様の顔色をうかがい、政治を操るのが目に見えてきた」

「と、いいますと?」

「毎年三月に勅使が京から来る。わしもそれで今忙しいのだが…。柳沢は朝廷の勅使に工作するつもりらしい。…なにをするか、わかるか?」

 そう投げかけられた二人は首を傾げた。

「はて…。見当がつきませんが…」

「…桂昌院様の従二位(*4)をお授け下さるよう、打診するつもりだそうだ」

 この答えに、助三郎がすぐさま反応した。

「では、もし許可が出て、従二位を頂ければ…」

「桂昌院様は喜び、上様も喜ぶ。そしてそれは柳沢の手柄」

 吉保の事を毛嫌いしている水戸藩主は、家来を相手に日頃の鬱憤を発散していた。
少し迷惑な話だが、早苗と助三郎は興味深く彼の話を聞いていた。

「…して、殿はどうされるおつもりですか?」

 助三郎がそう窺うと、綱條は天井を睨み不満げに漏らした。

「なにもできんから不満なのだ。だが、何かあの男を追い詰めるいい物が有ればいいな…」





 江戸へ来てしばらく経ったある日、助三郎は町人の着流し姿でぶらぶら歩いていた。
藩主は江戸城に詰めており、佐々木、渥美両名の仕事は無かった。
 せっかくの休みを、早苗と過ごそうかと思っていた彼だったがその計画は潰えた。
 彼女は親友の由紀の家で、町人の友、お孝を交えておしゃべりに熱中。男が入る隙間など無かった。
 それならば、由紀の夫で紀州藩士の与兵衛と飲みにでも…。と考えたが、彼は仕事で留守だった。
 最後の頼みの綱、町人の友達でお孝の相手、新助の家まで足を運んだが彼も居なかった。
 
「なんで皆居ないんだ?」

 そうぼやいて、助三郎は着物の袖に手を突っ込み、ぶらぶら歩いていた。
突然、閃いた様子で手を打った。

「そうだ! 早苗と格さんを分離する方法を考えよう! …義父上に頼めば出来るのか?」

 不可能に近い事を一人で考えながら、彼は散歩を続けた。

 昼ごろ、襷掛けの侍が小走りで助三郎の隣を通りすぎて行った。
喧嘩か何かと思い、受け流そうとしたがその顔に見覚えが有った。

「あれ? どこかで見たような…」

 考えていると、先ほどの男が戻ってきた。
息を弾ませ、肩で呼吸をする彼の顔を助三郎はとらえた。
 そして、彼が誰なのかを思い出した。

「ひょっとして、安兵衛さん?」

「ん? なんだ?」

 厳つく、怖そうな顔の男がじろっと助三郎の眼を見た。
若干さっきだったその眼に、助三郎は驚いたが、逃げはしなかった。
 すると男は助三郎の顔をまじまじと眺めた後、ぱっと笑顔になった。

「あ、助さんか? 久しぶり!」

「お久しぶりです」

 やっと認知してくれたことにホッとした矢先、彼に男は真面目な口調で挨拶をした。

「そうだ。…助三郎殿、御老公の事、お悼み申し上げる」

「…安兵衛殿、お心遣い忝い」

 武士同士の形式の挨拶を済ませた後、安兵衛は助三郎の肩を叩いて笑った。

「しかし、元気そうで何よりだ。よかったよかった!」

 安兵衛と呼ばれた男は、播州赤穂藩(*5)藩士、堀部安兵衛(*6)。
以前、彼を悩ませた『嫌がらせ』を光圀が解決したことが縁で知り合った。
 彼の妻、ほりと早苗は文通もしていた。

 男同士の再会を喜び合ったが、助三郎は申し訳ない気持ちになっていた。

「…お忙しいみたいで。すみません、呼びとめてしまって」

「いいや。気にしないで。どうせ、時間が掛かる…。もしかしたら、ダメになるかもしれん…」

 豪快に笑っていた彼の顔が曇った。
それに気付いた助三郎は、その原因は何か聞き出そうと試みた。

「今、なにをなさってるんです?」

「…畳職人を集めている」

 武士の仕事では到底ない。
助三郎は不審に思った。

「集める? なぜ?」

「だよなぁ。誰だってそう思う。まぁ、立ち話もなんだから…どうだ?」

 安兵衛は手で、酒を飲む仕草をしながら助三郎を誘った。
暇を持て余していた彼は躊躇することなく、その誘いに乗った。





「生き返る!」

 安兵衛は一気に酒を飲み干し、さも満足といった様子でお猪口を置いた。

「良い飲みっぷりですね。もう一杯!」

 助三郎は、そのお猪口に酒を注いだ。
それをすぐさま安兵衛は飲み干した。

「やっぱり、酒は良い! 疲れが取れる! さぁ、助さんも飲んで!」

 二人で飲んでいると、店の女将が空いた酒瓶を取りに来た。
そして新しい酒瓶の代わりに、小言を置いて行った。

「あんた、せっかく仕官できたのに、まだ飲んでんのかい?」

「いいだろう? 疲れがたまっちゃ、仕事は出来ない! そう言うことだ」

 声を張り上げると、店の奥から中年の男がやってきた。

「おう。どこかで聞いた声だと思ったら、安兵衛さんじゃねぇか。最近どうだ?」

 彼は自分の酒瓶とお猪口を片手に、安兵衛の隣に座った。

「忙しい! だから飲みに来れないんだ」
 
「お疲れだねぇ。まぁ、これは俺の奢りだ。一杯飲んで、頑張りな」

「忝い! 親父!」
 
 助三郎は、彼らの様子を傍らで見ていた。
すると、安兵衛は嬉しそうに呟いた。