凌霄花 《第一章 春の名残》
「皆、ちっとも変わらない。良いやつらだ」
「うらやましいです…。あ、ところで、なぜ畳職人を集めてるんでしたっけ?」
「畳が要るんだよ…。大量に」
イヤな事を思い出した安兵衛は、酒の肴の胡瓜の漬物を箸で突き刺し、口に入れた。
仇を討つかのように、音を立てて噛み砕いた。
それを見届けた助三郎は、質問を続けた。
「一体、何畳畳が要るんですか?」
「聞いてあきれるなよ。これだ」
安兵衛は持っていた箸を突き立てた。
「…二十畳?」
「いいや。そんなに少しなら、俺は今頃家で寝ている」
再び、漬物を齧り始めた彼に、助三郎は半信半疑で言った。
「まさか…二百畳?」
安兵衛はこくりと頷いた。
「二百畳!? 何なんですか、その途方もない数は!?」
漬物を酒で流し込んだ安兵衛は、そのいきさつを話し始めた。
彼の話から、主である赤穂藩藩主、浅野内匠頭長矩(*7)が大役を仰せつかった。
それは朝廷の勅使を迎え、接待する役目。
そして、彼の欲しがる『畳』は、勅使を迎える増上寺(*8)の畳ということだった。
「ですが、なんで急に一気に二百畳も? 普通、事前にわかるでしょう?」
助三郎は素朴な疑問を投げかけた。
「そうだ。それが普通だ。だがな、普通じゃない奴がいたんだよ…」
不満気な表情を浮かべ、安兵衛は酒を飲み干した。
「それは?」
「ご指南役の吉良様(*9)だ。あの爺さん、畳替えも最初はしなくて良いって言ったらしいんだ。
なのに、今朝の下見で『なぜ畳が古いままじゃ!?』って怒ってな」
「それで、今日安兵衛さんが?」
「あぁ。仲間も走り回ってる」
「しかし、なぜ吉良様は浅野様にそのような仕打ちを?」
「…いじめられているような気がする。おそらく…」
その時、店に男が走り込んできた。
彼は、安兵衛を見つけるなり、走り寄ってきた。
「あっ安兵衛さん居た! なに呑気にお酒…助さん!?」
彼は目当ての男と一緒に酒を飲んでいる助三郎に気付き、驚いた。
「よう! 新助、久しぶり」
男は新助だった。
「お久しぶりです。そうだ! 安兵衛さん、畳屋の親爺たち、説得出来ましたよ!」
再会を喜ぶ間もなく、彼は安兵衛に告げた。
すると、安兵衛は勢いよく立ちあがった。
「助かった! 新助さん、恩に切る! で、畳屋は?」
「源五さんたちに連れて行かれました」
「よし。俺もすぐに行かないと…。ここは俺が払…げ、財布が無い…」
安兵衛の勢いがピタリと止まった。
酒で赤らんだ顔が青ざめるのを助三郎と新助はどうしたものかと黙って見ていた。
しかし、そこへ店の女将がやってきた。
「なんだい? 金が無いのかい?」
怒った様子ではなく、『またか』といった体で彼女は呆れ口調だった。
そんな彼女に、安兵衛は手を合わせた。
「頼む! 今日はツケで!」
その姿に女将は笑い、快くツケを許した。
「仕方ないねぇ。いいよ! 早く仕事に行きな」
「忝い! では、助さん、新助さんまた!」
安兵衛は勢いよく店を飛び出した。
彼の遠ざかって行く後姿を眺めながら、助三郎は呟いた。
「吉良様…。浅野様をなんで苛めているのかな?」
「え? お武家でも、苛めってあるんですか?」
さも意外だといった様子で言った。
そんな彼を助三郎は笑った。
「そりゃあるさ。武士だって人間だからな」
しみじみと助三郎は言った。
生きる世界が、身分が違っても同じ人間。大差など無い。
「でも、厄介な事にならなきゃいいんですけどね…」
「だな…。武士はちょっと間違うと、命にかかわる…」
二人でぼんやり立っていると、新助が切り出した。
「そうだ、助さん。おいらと飲み直す気、無いですか?」
「有るに決まってるだろ? 女は放ってとことん飲もう!」
男二人の大事な相手は、今でもおしゃべりの真っ最中に違いなかった。
「では、行きましょう! いい店あるんですよ…」
数日後、助三郎と新助の心配は現実となった…
作品名:凌霄花 《第一章 春の名残》 作家名:喜世