雪割草
〈01〉江戸からの文
時は元禄、所は常陸の国の水戸藩。
木々に囲まれた静かな西山荘には先の藩主、徳川光圀と藩士、佐々木助三郎の姿があった。
助三郎は、主である光圀にそっと窺った。
「…文にはなんと?」
その朝、江戸から光圀に文が届いたのだった。
丁度、仕事でその場に居合わせた助三郎はその内容が気に掛かっていた。
声をかけられた光圀は、顔を上げると彼に向って簡単に内容を教えた。
「上様から、登城せよとのことじゃ。その後、紀州まで行って欲しいと書いてある」
「紀州でございますか? 一体何のために?」
遠い西国、そこまでどうして光圀が出向かなければならないのか、助三郎は疑問を感じた。
「登城した際に詳細はお教え下さるそうじゃ」
光圀は助三郎の答えに、こう返した。
すると、納得した助三郎は身形を正すと意を告げた。
「では、御老公。それがしがお供仕ります」
佐々木助三郎は光圀のお気に入りの若侍。
そのお供に光圀は喜んだ。
「助三郎が来るのは頼もしい。じゃが、もう一人欲しいの。…そうじゃ橋野に人選を頼もうかの」
そう呟いた光圀の意を汲み、助三郎は申し出た。
「早速、お頼みして参ります。では…」
『橋野家』の当主、橋野又兵衛は水戸藩藩士の配置の管理をしていた。
それ故、顔も広かった。
…元忍びの家系。と噂されていたが、良く知る者は少なかった。
助三郎にとって橋野家は昔から出入りしている、気安い家だった。
この日も、心を占めるのは仕事だけではなく、橋野家に行けば会えるある人物の面影だった。
はやる心に、仕事だと言い聞かせ助三郎は橋野家の玄関に入った。
「又兵衛殿はご在宅か?」
そう告げると、若い下女が現れた。
「佐々木さま。どうぞこちらへ」
そう言い、彼女は助三郎を奥の客間に通した。
下女は茶を運び、助三郎の前に差し出した。
「しばらくお待ちくださいませ。ただいま他の者が呼びに行っておりますので」
「はい」
助三郎が茶をすすっていると、目当ての人物、又兵衛がやって来た。
「助三郎か。わしに何の用だ?」
ドカッと上座に座り、興味ありげにそう聞いた。
助三郎は身形を正し、仕事なのでしっかりと訪問の目的を告げた。
「はっ。本日は御老公様の使いで参りました」
「では、用件を聞こうか…」
助三郎は簡単に旅に付いて行く供の者の人選を頼むと告げた。
すると、又兵衛は腕組みをしながら考え始めた。
「供のものか…。お前は剣が立つから問題はない。ならば…他の腕が立つものが良いだろう。
…源四郎はどうだ?」
「源四郎殿は柔術が得意ですので適任かと」
「そうだな。後は、念のためにお銀と弥七もつけよう」
二人は忍び。
戦闘、潜入、諸々の能力に長けた彼らをお供にすれば、危険はまずない。
安心した助三郎は又兵衛に礼を言った。
「はっ。ありがとうございます」
仕事が無事終わった助三郎はホッと息を吐いた。
心に、会いたいあの人物が再び現れた。
その人に会うために、眼の前の又兵衛に一言言おうとした矢先、新たな話題が持ちかけられた。
「そうだ。お前が供として水戸を出ていくとなると、しばらく国には戻れないな」
「はい。そうなりますね」
「家はどうする? 男手が足りないぞ」
しばらく二人で話していたが、突然、部屋の外から声がかかった。
「父上、ただいま戻りました」
女の声だった。
助三郎はその声を聞くや否や、鬢を撫でつけ袴の皺を手で伸ばした。
その様子を見た又兵衛は静かに笑った後、声の主を呼びよせた。
「早苗。助三郎が来ておるぞ。早くここに来なさい」
「はい」
返事と共に、早苗が助三郎の眼の前に現われた。
そして行儀よく彼に挨拶をした。
「こんにちは。助三郎さま。今日は父上にご用ですか?」
助三郎が会いたかったのは彼女だった。
既に結婚は申し込み、親にも許され、許婚の間柄だった。
二人は子どもの時から、近所で同い年ということでよく遊んでいた。
しかし、二人ともよく喧嘩をした。
いまだに口喧嘩が絶えない二人を皆は『仲が良すぎるせい』と言ったが本人たちは自覚していなかった。
助三郎が答える前に、又兵衛が口を開いた。
「この度助三郎は御老公様に付いて、江戸に行くこととなった」
「えっ? 江戸?」
突然の出来事に早苗は驚いた。
「正しく言うと、そこから紀州へ向かうことになる」
「…遠い。…では、しばらくご帰国出来ないのですか?」
少し不安になった早苗はそう聞いた。
「そう言うことだ。…寂しいか?」
少しからかうような表情の父に、早苗は冷静に返した。
「いいえ。お仕事なら仕方ありません」
きっぱりと言った姿に、又兵衛は失礼なことを言った。
「…頑固だろ? 可愛げがなくていかん」
すると助三郎もそれに乗じてからかった。
「はははっ。義父のおっしゃる通り」
早苗はキッと男二人を睨んだ。
「父上。言わなくても無くてもいいことを! 助三郎さまも!」
気まずそうに余所見をし始めた助三郎とは反対に、又兵衛はすぐに娘を宥めた。
「そう怒るな。…そうだ。今、助三郎の帰国を待って祝言を挙げようかと話しておったところだ」
突然の話に、早苗は驚いた。
「祝言、ですか?」
助三郎に求婚され、父に許可を貰って以来初めて出た言葉だった。
本当に結婚するのかと半信半疑で過ごしてきた彼女にとって『祝言』という言葉は大きかった。
すると、助三郎は照れくさそうにボソッと言った。
「…結婚申し込んでからだいぶ経ってるからな。…そろそろと思ってさ」
そんな彼の様子を見て、早苗はふと思い出していた。
『…結婚してくれるか?』
彼はただ一言、いつになく真剣な眼差しでそう言った。
普段からふざけた言動が多い彼の突然の求婚。
早苗は驚きのあまり、その場はウソだ、冗談だと思い受け流そうとした。
しかし、訴える眼に負け、口が勝手に動いた。
『…はい』
そう一言返事をしたときの、助三郎の笑顔が忘れられなかった。
…その後の彼の甘い雰囲気のかけらもない行動も、忘れられなかったが。
「…でも、旅に出るんでしょう?」
「あぁ。ちょっと長くなるかもしれん」
眼の前の許婚が長い間居なくなる。
その不安と同時に、彼女の心にある強い気持ちが沸き上がった。
「…そうだ。父上。お願いがあります」
「なんだ? 言ってみろ。」
「わたくしもご老公さまのお供がしとうございます!」
早苗は強く、父に訴えた。
「えっ?」
「は?」
男二人は突拍子もないこの言葉に驚いた。
あっけにとられた後、二人して笑いだした。
「いきなり何を言い出すかと思えば…。冗談をいうんじゃない。ハハハハ!」
「そうだ、遊びじゃないんだぞ。お前は家でお留守番だ! ハハハ」
「笑わないでください! わたしは真剣です!」
「だって…。ハハハハ…」
「…女だからって舐めないで」
早苗は助三郎を冷たく睨んだ。
ギョッとした彼は笑うのを止め、逃げた。
「義父上、では御老公様に本日の趣、伝えますので」