雪割草
「…はい。ずっと文のやりとりだったので」
「でも、じきにその姿で会わせてくれるわよ。それまでちょっと我慢ね」
「はい」
そこに、突然戸が開く音が響いた。
お銀がすかさず早苗を背後に隠した。
「誰!?」
語気を強めると、返って来たのは女の声。
「すみません。お銀さん。由紀です。ご一緒してもよろしいですか?」
「あ…。由紀さん?」
さすがのお銀も迷った。
風呂場で男に覗かれればするべき事は一つ。迷う余地もなかった。
しかし、なんの罪も無い女の子に同じことは出来ない。
「…早苗さん、ここで言うしかないわね」
「…はい」
早苗は隠れる事をやめた。
その彼女に、由紀はすぐ気付いた。
「あれ? 早苗!?」
「…うん」
「佐々木さまから水戸にいるって聞いたけど、来てたの? 会いにきてくれれば良かったのに…」
先ほどの他人行儀、洗練された奥女中とは違う、昔と同じ彼女の姿に早苗は懐かしさを覚えた。
しかし、これから打ち明ける事実を前に手放しには喜べなかった。
「ごめんね。本当は真っ先に行きたかったんだけどいろいろと事情が…」
「なに?」
早苗は複雑な事情を説明した。
「え!? じゃあさっきの渥美様は…」
予想通り、彼女は驚きを見せた。
「そう、あれはわたしなの…」
恐る恐る彼女の顔を見たが、その顔は笑顔だった。
「なかなか良い殿方だったわね。でも何となく早苗に雰囲気が似てたかも」
意外な言葉に、彼女は驚いた。
同時に不安になった。
「そうかな? 助三郎さまにバレちゃうかな?」
「まぁ、鈍感だったら無理ね…。あとは早苗の努力次第かな」
「…頑張る。そういえば、お仕事って毎日なにしてるの?」
「そうねぇ…」
二人は近況報告をし合い、楽しい時間を過ごした。
たくさん話したいことがあったが、その日は早々に切り上げることにした。
「あまりお風呂に時間使うと、男のクセにやけに長いと思われるから」
「女の子だから仕方ないのにね」
支度を終えると、早苗が早苗で居られる時間の終わりが来た。
「じゃあ、変わるね」
「え? そんなに簡単に変われるの?」
興味深げな眼で見られ、少し恥ずかしくなったが彼女は変身した。
「うん。…どうだ?」
眼の前にあった由紀の眼が、大分下の方になっていた。
その彼女の眼は輝いていた。
「すごい! さっきの男の人! 背が大きいわね!」
その眼は惚れた腫れたの類ではなかったので、早苗に抵抗はなかった。
彼女の喜ぶ姿を笑った。
「デカいって言わないでくれよ」
「話し方も男! 面白い!」
「そうか?」
親友に受けれられて嬉しい早苗は少し心が楽になった。
まだ完全に受け入れきれていない男の姿を少し見直した。
「由紀、久しぶりに話せて楽しかった。でも、俺のことは絶対に助三郎に言わないでくれよ」
「その格好の時は呼び捨てなんだ。へぇ…」
「へ? なにが?」
「…なんでもない。わかってるわ。一緒に早苗と旅ができるように絶対に言わない」
「ありがとう」
別れ際、早苗は由紀に呼び止められた。
「あ、さっき佐々木さまから手紙を渡されてた! 今渡しておくね」
「これ?」
「もしかしたら、恋文じゃない? キャ!」
一人で喜ぶ彼女を見て、少し期待したがあの男が恋文など書く筈がない。
そう思う早苗はあっさりと受け流した。
「違うだろ。でも、ありがとな。後で読むよ」
「それでは、おやすみなさい。渥美さま」
「おやすみ、由紀殿」
その頃、部屋では助三郎が寝転がって天井を見つめていた。
由紀に渡した文が気掛かりだった。
彼女に手紙が届くか否かは心配いらない。
しかし、それを読んでくれるかが不安だった。
喧嘩別れした日を境に、彼女とは会っていなかった。
最後に見たのが彼女の涙。
それが心残りで仕方がなかった。
実際、その彼女はずっと彼の隣に居た。
しかし、彼がそれに気付く筈が無い。
「やっぱり、無理してでも会って来た方が良かったな…」
「はぁ…。返事、くれるかな? でも、無理か…」
「助三郎。うるさい。寝られんではないか」
隣で既に布団に入っていた光圀から睨まれた。
「あ、申し訳ございません」
鬱々とああでもないこうでもないとゴロゴロしている所へ、早苗が風呂から帰ってきた。
もちろん、格之進の姿で。
「おっ。格さん、寝る前に一つどうだ?」
しかし、早苗はその誘いには乗らなかった。
彼女にはする事があった。
「すまん、今から日誌をつけるんだ。構わんから一人でやっててくれ」
「…日誌って?」
「何となく書きたいなって。それに後で役に立ったらいいだろ?」
文章を書くのが好きな早苗は、旅の間日誌を書こうと決めていた。
既に水戸からここまでの日々の日誌は記してあった。
その日の分を書こうと、彼女は部屋においてあった硯箱を用意した。
墨を摺る彼女を助三郎が眺めていた。
「…まめだなぁ。でも、日誌なんか明日書けば良いじゃないか?」
お気楽なその言葉に、早苗はクスッと笑うと真面目に返した。
「日誌というものはその日に書くから日誌というんだ。明日書いたら意味がないだろ?」
「ふぅん。そういうもんなのか?」
つまらなそうにそう言うと、光圀の隣の布団に潜り込んでしまった。
「なんだ? 助さん、飲まないのか?」
「一人じゃ、つまらない。もう、寝る…」
すぐに彼の規則正しい寝息が聞こえた。
早苗はそれを見て呟いた。
「寝つきが良くてうらやましい事で…」
早苗は皆が寝静まった部屋で一人、日誌をつけはじめた。