雪割草
「ありがとうございます。家に運んでいただけるとありがたいのですが…」
女性は助三郎に申し訳なさそうにそう頼んだ。
助三郎は快く受けると、怪我をした男の子を背負った。
「おにいちゃん。たっちゃんよろしくね」
傍に居た子どもたちが彼を取り巻き、口々に言った。
「あぁ。わかった。格さん、御隠居を頼む!」
助三郎は男の子を背負い、先導する女性に続いた。
その後を、光圀一行も追った。
行き着いた先は小さな長屋。
女性はそこに入ると、子どもたちが見守る中、手際良く男の子の怪我の手当てを終えた。
「これでもう大丈夫。でも、痛むから走っては駄目ですからね」
「はい。先生」
男の子は素直に答えた。
それを笑顔で受けた女性は、他の子どもたちにも言った。
「みんなも、転ばないように気をつけるのよ」
「はい! 先生、また明日ね!」
「はい。また明日」
元気な子どもたちを女性は笑顔で見送った。
その後、彼女は光圀一行に茶を出し、挨拶をした。
「ご挨拶が遅れてしまいました。わたしは光と申します。助けていただき、ありがとうございました」
「いえいえ、供の物がお役に立てて結構結構。わしも光じゃ。光衛門。ところで、子どもたちがお光さんの事を先生と呼んでおったが?」
興味を持った彼はお光に尋ねた。
「寺子屋の手伝いをしております」
その返事に、助三郎は感心した。
「学問を教えてるんですか」
「はい。読み書きくらいなんですが」
「良いお仕事ですね。先生」
お光と楽しげに話している助三郎に、早苗はムッとしていた。
水戸に居る頃、彼はよく女の子に声を掛けていた。
その時は無視を決め込んで見て見ぬふりをした。
旅の道中でも、彼はチラチラ道行く女性を見ていた。
それも早苗は我慢し、知らんぷりした。
しかし、今回だけは無視しきず、我慢できなかった。
彼女は隣の由紀に声を掛けた。
「由紀さん、先に宿に帰ろう」
「え? わたし?」
突然そう言われた由紀は驚いた。
しかし、早苗はもう帰る決意を固めていた。
「ご隠居、先に戻っております。助さん、後頼む。お光さん失礼します」
その早苗の背中に、彼は呑気そうに言った。
「なんだもう帰るのか?」
道すがら、由紀は早苗がどうやら機嫌が悪いと気付いた。
「…早苗。もしかして、焼き餅?」
早苗は反論した。
「そんなんじゃない! あいつの、あのふぬけた顔が気に喰わないだけだ!」
そんな彼女を見て、由紀は笑った。
「それが焼き餅よ」
彼女を無視し、早苗は歩みを速めた。
「とにかく、帰る!」
宿の部屋に戻り、茶を啜るうちに早苗の心は落ち着きを取り戻した。
そして、自分の行動を反省した。
感情任せに仕事を放り出し、帰って来てしまった。
今度は自分の不甲斐無さに溜息をついていると、隣で同じく茶を飲んでいた由紀が言った。
「ねぇ早苗。心配しなくても、助さんは浮気とか、変なことしないと思うわ」
その言葉に、早苗は安心するどころか不安になった。
「…見張ってようかな?」
助三郎の気持ちがわからない早苗は本当に不安だった。
なぜ自分に結婚を申し込んだのかわからない。
冗談半分で、妥協で決めたのかもしれない。
本心を知りたい早苗は、許婚の行動を観察する事で何か答えが見つかるかもしれないと思い始めた。
「頑張ってね」
早苗は、つかの間の休息で女に戻り、親友とお茶しながらおしゃべりを続けた。
すると、おもむろに由紀が頼みごとをした。
「早苗、お願いが有るんだけど、いい?」
「できる範囲ならね」
すると、由紀は少しもじもじしながら言った。
「…抱っこしてくれる?」
「へ?」
突然の頼みに、早苗の眼が点になった。
「出来ない?」
早苗ははっきり言った。
「だって、重いもん」
「失礼ね。早苗だから重いんでしょ? 格さんなら楽々じゃないの?」
どうしても抱っこしてもらいたい様子の彼女を早苗は不思議に思った。
「なんで、そんなに抱っこしてもらいたいの?」
すると、由紀は眼を輝かせながら語った。
「憧れなの…。男の人に抱っこしてもらうの。でも恥ずかしいじゃない? 『抱っこして』って頼むの。
早苗ならいいかなって」
早苗は若干の理不尽さを感じた。
「わたしなら良いって、よく分からない…」
しかし、由紀は一歩も引かなかった。
「いいじゃない。ねぇ、変わって! お願い」
やたらとねだられ、早苗は負けた。
しぶしぶ男に変わると、由紀を抱っこすることにした。
「重かったら、すぐ下ろすからな」
そう言いながら、早苗は由紀を抱っこした。
楽々と持ちあがったので、抱っこされた本人以上に抱っこした早苗が驚いていた。
「俺、こんなに力あるんだ…」
「すごいわ! さすがね」
喜ぶ由紀をよそに、早苗はあっさりと抱っこを止め、彼女を下ろそうとした。
「もういいよな? 満足したか?」
しかし、由紀は頭を縦に振らなかった。
「…ううん」
「なんで?」
由紀は早苗の眼を見つめ、そっと言った。
「由紀って呼んで…」
「…由紀?」
「格之進さま…」
彼女は色っぽく囁くと、早苗の首に手をまわした。
「…へ? なにする気だ」
彼女は臆することなく、早苗を見つめ微笑んだ。
「恥ずかしがらないで。好きよ、格之進さま…」
おかしな親友を眼の前に、早苗は焦った。
「…よせ! 俺は男じゃない!」
「なに言ってるの? 格之進さま。由紀はあなただけのもの。わたしだけを見て…」
由紀はとうとう早苗に顔を近づけ始めた。
彼女の眼は、完全に男を誘惑する女の眼になっていた。
早苗は寒気がし、必死に荒がった。
「やめてくれ! 俺は女だ。俺には助三郎が…」
離したくとも、首に手が回っている。
自分の手を離すと、由紀が落ちて危険。
打つ手がない早苗は必死に顔をそむけた。
すると、由紀が大笑いし始めた。
「はははっ! 冗談よ!」
「へ?」
ハッと彼女を見ると、普段の由紀に戻っていた。
「もう下ろしていいわよ。ほんとおもしろかった。はははは!」
大笑いする彼女に早苗はムッとした。
「なにしてくれるんだ! ふざけるにもほどがあるぞ!」
「ごめんね。でも面白かったわ」
全く悪びれない由紀に、早苗は女に戻り睨みつけた。
「わたし、男じゃないのよ!」
ただでさえ嫌いな、男を誘惑する女の眼。
それを一番の親友にされ、早苗は身の毛がよだつ思いだった。
「でも、ドキドキしたでしょ?」
「は?」
「ああやって見詰めて、色っぽく言えば、男は参るわ」
自信満々に彼女は言った。
早苗よりもずっと相手の男と進んでそうな由紀の言葉に、少なからず早苗は信憑性を見出した。
「…そうなの?」
「そうよ。いちど助さんにやってみるべきよ。そしたら浮気なんか絶対しないわ」
早苗は助三郎に恨みごとの一つでも言ってみたかった。
『わたしだけ見て』
しかし、いつも自分をからかう彼を思い出し、そんな事を言っても無駄だと諦めた。