雪割草
〈04〉『格之進』誕生!
そこで早苗の目は覚めた。
不思議な夢を見た彼女は、寝ぼけ眼でぼんやりとその意味を考えた。
しかし、なにも浮かばないばかりか、眠気に誘われた。
心地よい二度寝の誘惑には負けず、彼女は起きることにした。
そして擦った眠い眼に映った物が、彼女をギョッとさせた。
それは大きな手。
いつもとは違う骨ばったその手に、早苗は眼を奪われた。
握ったり、開いたりしていたがその手は相変わらず大きなままだった。
そんな手に違和感を感じたが、早苗はじきに興味を失い、身支度をするため立ち上がった。
そのとたん、いつもより遥かに目線が高いことに気付いた。
普段なら手がやっと届く箪笥の上に埃がたまっている。
そんな状況が把握できることに驚いた。
変だと思った早苗だったが、彼女は『寝ぼけたせい』にした。
そして、枕元に置いていた簪を取り上げ、髪を整えるため鏡の前に座った。
その鏡を覗き込んだ瞬間、彼女は飛び上がる程驚いた。
鏡の中には見知らぬ男が居た。
恐ろしくなった早苗は、手に持っていた簪の柄を握り、後ろを振り向き、脅しをかけた。
「誰だ?」
背後には誰もいなかった。
しかし、早苗は低い男の声にギョッとした。
部屋を見渡したが、自分以外に誰もいない。不審者が侵入して逃げた形跡もない。
心を落ち着かせ、再び鏡を覗き、固まった。
鏡の中には、さっきと同じ男が居た。
その男は彼女を驚いた顔で、じっと彼女を見ていた。
早苗はその男を観察し始めた。
顔は目鼻がすっきり整っている。
しかし、彼女が見とれる事は無かった。
助三郎と比べれば魅力も何もない。そう思った彼女は彼を思い浮かべ、笑みをこぼした。
すると、鏡の中の男が笑った。
その光景に彼女は再びギョッとした。しかし、ある重大なことに気付いた。
鏡に自分が映っていない。居るのは見知らぬ男だけ。
ここでやっと早苗は状況を把握した。
「…これ、俺か? …げっ。なんだこれ!?」
いつものように『わたし』といったはずが『俺』に変換されていた。
戸惑いを隠せない彼女は、再び呟いた。
「…俺、男になったのか?」
その低い声と口調は間違いなく男だった。
そこでようやく、気がついた。
「ってことは、秘薬が効いたんだ…。 すごいな…」
不思議がって変化した自分の顔を再び鏡でじっくりと眺めていたが、あることに気付いた。
身に付けている着物が、昨晩とは違う。
女物の寝間着はどこへやら。地味な色の男物に変化していた。
早苗はその着物の下が気になっていた。
「…この身体も、変わったのかな?」
確認すべきか否か迷っていると、突然部屋の障子が開け放たれた。
「早苗! 無事か? おぉ!」
娘の変わった姿に、又兵衛は驚きの声をあげた。
しかし、早苗はすぐさま父に向って怒鳴った。
「勝手に娘の部屋に入らないで下さい!」
「すまん…」
少ししょんぼりした又兵衛の後ろから、元気よく平太郎が部屋に入ってきた。
「なにが娘だ。よぅ弟! 俺に似て格好良いじゃないか」
「…似てて格好良いか?」
文句を言った妹をジロジロ眺めた彼は満足げに言った。
「よし、弟だ! 俺に弟が出来た!」
「俺は妹だ!」
自分が男になったという事実を受け入れきれていない早苗は、『弟』と連呼する兄にイラッとした。
そして、抗議するためにその場で立ち上がった。
その瞬間、平太郎は締まりのないニヤケ顔から、驚きの表情に変わった。
「…でかくなったなお前」
「え? …あ。ほんとだ」
いつも見上げていた兄の顔が目の前にあった。
男になって背が伸びたことが良くわかった早苗だった。
「早苗、でかくなったな…。あんなに小さかったのになぁ…」
しみじみとそう呟く又兵衛に、平太郎が言った。
「父上、こんなやつのこと早苗などと呼んだら笑えます。男の名で呼ばないと」
『こんなやつ』と言われてムッとした顔をした早苗をよそに、又兵衛は自信有り気に胸を張った。
「そうだった。いい名前を考えてあるぞ」
「…なんですか?」
あまり期待をしていない早苗は、疑い深く父を見た。
しかし、彼は億さずにその名前を口にした。
「『あつみかくのしん』だ」
早苗は、その名前を復唱した。
「あつみ、かくのしん…?」
「ふくの実家の姓と、我が家の先祖の名前を使ってみた。この字でどうだ?」
又兵衛は懐から折りたたんだ紙を取り出し、早苗に手渡した。
そこには大きく『渥美格之進』と書いてあった。
早苗に一つも不満は無かった。そんな彼女の隣で、平太郎も感心していた。
「へぇ、父上にしてはなかなかだな早苗、いや格之進」
「はい、兄上」
素直にそう返すと、兄は早苗を眺めながら感慨深げに呟いた。
「…新鮮だなぁ。弟に兄上って呼ばれるの」
先ほど早苗が『妹』だと主張したにもかかわらず、兄は彼女を『弟』にしてしまった。
『弟』と呼ばれるのに未だ抵抗があった早苗は彼を睨んだが、本人は悦に入っていた。
「助三郎に呼ばれるより感動する…。 いいなぁ、弟って…」
なにを言ってももう無駄だと解った早苗はがっくりとうなだれた。
しかし同時に、自身の変化を受け入れなければという思いも起こった。
許婚の為に得た姿、それで藩の役にも立てる。責任は重大だが、やり甲斐は大いにある。
決意を新たに、深呼吸をした。
その直後、早苗は兄に肩をポンと叩かれた。
「なんですか?」
「…格之進、寝間着を早く脱ぐんだ」
とんでもない言葉に、早苗は驚き声をあげた。
「は!? 妹に向って脱げとはなんですか!? スケベ!」
身の危険を感じ、すぐさま掛け布団で身体を覆い、蹲った。
そんな努力も空しく、平太郎にそれを奪われ、呆れた顔をされた。
「隠す意味ないだろ。男の裸なんか見ても嬉しくも何ともない」
その言葉に早苗は言葉を失った。
呆然とする彼女に、父が追い打ちをかけた。
「そうだ。娘じゃないから構わん。さっさと着換える! 時間がもったいない」
早苗を立たせるや否や、帯を解いた。
彼女は真っ赤になって叫んだ。
「イヤ! 変態!」
「女みたいな事言うな!」
「そうだ! お前はもう格之進だ!」
早苗は手荒な男二人に精一杯抗ったが、あっという間に寝間着を剥かれ、気付いた時には着物に袴姿になっていた。
身体の確認など、する間もなかった。
立ち尽くす早苗に平太郎は満足げに言った。
「なかなか良い体格だ。柔術で問題なく戦える。後で試合しような!」
そんな息子の隣で、父は真面目に早苗に告げた。
「柔術もいいが、剣術、馬術、槍術…。すべて特訓するからな。解ったか?」
「はい…」
すでに心が折れそうな早苗は弱弱しく返事をした。
少し心配そうな顔をした父と兄だったが、すぐに気を取り直し次の行動に移ることにした。
「よし、ひとまず腹ごしらえだ。ふくにもその姿を見せて、納得してもらわんといかん」
ふくはその時、台所で下女と朝餉の支度をしていた。
普段ならば、花嫁修業の一環で早苗も手伝う。