雪割草
しかし、その日早苗は出来なかった。
その事と、男になった事の両方を怒られるのではと不安になった早苗だったが、父と兄に促され、恐る恐る声を掛けた。
「…おはようございます」
すると、母はピシッと言った。
「平太郎、座ってなさい。支度はまだです!」
なぜか兄と間違えられた早苗は一瞬、どうしようか迷った。
しかし、再び頃合いを見計らい母に声を掛けた。
「あの、母上…」
すると、彼女はその声が長男と少し違うことに気がついたようだった。
仕事の手を止めると、早苗の方を振り向いた。
その姿に、そっと窺いを立てた。
「…何か手伝いましょうか?」
ふくはあっけにとられた顔で早苗を見つめた。
「…もしかして、早苗?」
「…はい」
「平太郎に似て大きいわね…」
意外と普通の感想が返って来た。
拍子抜けした早苗だったが、母に質問を続けた。
「で、私は何の手伝いを…?」
しかし、母からはそっけない答えが返ってきた。
「良いから、座ってなさい」
結局、早苗は父や兄と共に居間に座り、朝餉の完成を待った。
食事が始まった途端、又兵衛は嬉しそうに妻に言った。
「どうだ? この姿、わしの若い頃に似ておらんか?」
しかし、ふくはその言葉をズバッと切り捨てた。
「まったく。早苗の方がずっと格好良い」
「…ひどい。あんまりだ」
撃沈した父はやけ食いをし始めた。
哀れな夫に眼もくれず、ふくは早苗を眺めながら呟いた。
「…何処から見ても男。早苗の面影が無い。でも、平太郎の弟と言われたら誰も疑わないでしょうね。」
すると、やけ食いをピタリと止めた又兵衛は、期待のこもった眼差しで妻の同意を求めた。
「ほら、二人ともわしに似たから格好いいんだ。だろ?」
「そんなことはどうでもよろしい。しかし、言っておくことがございます」
「なんだ?」
妻に相手にされない哀れな又兵衛は、肩を落としながらそうボソリと言った。
みじめな姿と裏腹に、威圧感たっぷりのふくは夫に向かってきつい灸を据えた。
「たとえ、姿は男になってもこの娘は早苗です。男だからと、妙な事を吹き込んでもらっては困りますからね!」
この言葉に又兵衛は素直に従い、仲間の息子にこそっと耳打ちした。
「…ということで平太郎、予定していたあれとあれはだめだ。諦めよう」
「…はい。ちょっと残念ですね」
その隣で早苗は純粋に『妙な事』に疑問を抱いていた。
「母上、妙な事ってなんですか?」
ふくは元娘を憐れむ顔をした後、夫と息子に念を押した。
「わからないならなおさらです! 貴方、絶対ですからね!」
食事が終わると又兵衛は早速身体を解しながら息子二人に、特訓の開始を宣言した。
「さて、始めるとするか…」
「はい。行くぞ、格之進」
平太郎もやる気十分。早苗を連れて庭に出ようとした。
しかし、当の早苗はもじもじしながら二人にボソッと言った。
「あの、その前に…」
しかし、本題を切りだすことができなかった。
はっきりしない娘に、又兵衛は顔をしかめた。
「何だ? またイヤイヤの始まりか?」
「違います! その、えっと…」
言うのが恥ずかしすぎた。
しかし、それはどうしようもない事。誰にでも自然に起こる事。
それを我慢するのは辛く、身体に悪い。
「はっきり言え。なにが言いたい? …父上に言えなかったら、俺に言え」
そう言った兄に絆され、早苗は口を開いた。
「厠は…。その、どうすれば…?」
勇気を振り絞ってそれを告げたが、その瞬間顔から火が出た。
その顔を見た兄は大笑いし、つられて父も笑い始めた。
しかしそれとは正反対に、母は猛烈な勢いで怒った。
「貴方! 嫁入り前の子に変な刺激はいりません! 厠と風呂は女に戻してからにしてください!」
腹を抱え、涙を浮かべながら又兵衛は彼女に言った。
「ハハハハ…。道中はそうしよう。ハハハ、さすがに可哀想だ。なぁ? 平太郎」
平太郎も父と同じく、笑い転げていた。
「別にいいんじゃないですか? というか、いい経験だ! ずっとそのままでいいだろ? ハハハハ!」
バカ騒ぎをする男二人を、ふくがキッと睨んだ。
それに驚いた二人は笑うのをやめ、又兵衛は威厳を正して息子に命じた。
「平太郎、指南してやれ。もしもの時に困る。男でできなかったらな」
父に倣い、平太郎も真面目に返事をした。
「わかりました。弟! 行くぞ!」
「はい…」
しかし、厠へたどり着く前に平太郎はまたも笑い始めた。
「ブッ! ハハハハ! ダメだ。腹が痛い…」
「笑うな!」
真っ赤になって起こる早苗を見た彼はピタリと笑うのを止め、
申し訳なさそうに、頭を掻いた。
「悪い悪い。いくら見た目が男でも、中身女の子だもんな」
ようやく落ち付いた兄を見て、早苗はホッと一息ついた。
「それで、どうすればいいんですか?」
「まぁいい。習うより慣れろだ…」
…早苗にとって、最悪の時間が流れた。
用を済ませ、厠から出てきた早苗はすぐに床に突っ伏して泣きじゃくった。
「もうイヤ!」
それを眺め、バツが悪そうに平太郎はぼやいた。
「仕方ないだろ? 男なんだから…」
「絶対イヤ! もう二度と入らない!」
泣きじゃくる早苗の様子を遠巻きに下女たちが眺めていた。
彼女たちの顔は皆、早苗を憐れんでいた。
「女に戻りたい…」
そんな早苗の泣き言も空しく、彼女を『格之進』にするための特訓が始まった。
馬術は散々だった。
早苗が普段から世話をしてかわいがっていた馬は、彼女が男になった途端、誰かを認知出来ないのか、
暴れて言うことを聞かなかった。
剣術と槍術は普段ほとんどやらない上、背丈や手足の長さが普段と全く違うので全く思い通りにならなかった。
さらに、父も兄も『早苗の身体が男だから』と言い、一切の手加減をしなかった。
大の男も泣きごとを言いだしそうな激しい特訓を続け、早苗はへとへとになった。
しかし、音を上げない彼女に、平太郎が関心して声をかけた。
「格之進、大丈夫か?」
「…はい。大丈夫です」
本当は妹の事が心配な兄は、父が居なくなったのを見計らうと優しくこそっと耳打ちした。
「…本当にヤバくなったら俺に言うんだぞ。いいな?」
「…はい」
「よし、格之進、気分転換に柔術やろう。技かけてみろ」
「はい」
まずは普段通りに投げ技をかけた。
次の瞬間、足もとで兄が苦悶の表情を浮かべ、怒鳴っていた。
「早苗! 力加減を考えろ! 痛いだろ!」
「へ?」
いつも全力で投げ技に挑む彼女に、『力加減』などという言葉は無かった。
それに気付いた兄は、打った背中をさすりながら言葉を続けた。
「女の時とは違う。腕を見ればわかるだろ?」
「腕?」
そう言われ、早苗は自身の腕を見た。
それは『女の細腕』などという言葉が全く当てはまらない物だった。
筋肉が付き、本当の腕よりも倍くらい太かった。
「ちょっとしか力入れてないんですけどねぇ…。 男ってすごいな…」