千日紅
しかし、もともと心配性の早苗はどつぼにはまって行った。
そこから救い出すべくお銀は懸命に話しかけた。
「思い詰めたらダメ。貴女それでおかしくなったでしょう。気分を切り替えるの。
もしかしたら助さんに十日以内に戻るかも知れないでしょう?」
「……そうだと良いが」
「さぁ、元気出して。お仕事して」
最後に一発、景気良く肩をたたき早苗を元気づけた。
「あぁ。がんばってみる」
「あ、そういえば、お父様が用事だそうよ。仕事終わったら寄るようにって」
「父上が?なんだろな。どうせろくな話じゃないだろうな」
この早苗の考えは合っていた。
夕刻、早苗は仕事帰りに実家に立ち寄っていた。
なぜか機嫌がよさそうな父親に、先ほど感じた不満が和らぎ希望が少しだけだが湧きはじめた。
「父上、もしや解毒剤ができたのですか?」
「解毒剤はまだだ。それより、今しかできないことをすぐにやる。いいか?」
「……なんですか?」
今一番欲しい物が後回しにされたことで、早苗は苛立ちを感じた。
ただでさえ、出立が近い。用意もあることだし、何より夫を残していくことになるかもしれない。
早苗の頭の中はぐちゃぐちゃになり始めていた。
にも関わらず、又兵衛は全く関係ないことを考えていた。
「あの、文の山をなくしたい」
そう言って指差したのは、数日前に見た格之進に対する見合い、嫁取り、婿入りの書状だった。異なっていたのは、量だった。
目に見えて増えていた。
「ちり紙に変えればいいのでは?」
どうでもいい話なので、早苗は適当な提案を口にした。
「いや、それは地道にやっておる。それよりな、金輪際書状が来ないようにしたい」
「そんな手立てがあるのですか?」
早苗は少しだけその話に興味が湧いた。
もう一人の自分にこういった関係の文が来なくなるということは、男の姿で出歩いても、女の子が寄ってこなくなるということをも表していた。
「ついでにお前たちの欲求不満も少し和らぐかも知れん」
欲求不満、という言葉にも興味が湧いた。
「どんな方法ですか?」
身を乗り出して聞こうとした早苗だったが、次の又兵衛の発言を聞き、驚きの余り開いた口が塞がらなくなった。
「渥美格之進は佐々木家の親戚の美帆と結婚する」
「……へ?」
「じゃあ明後日祝言挙げる。この家でやるから美帆さんを連れてこい。お前の白無垢着せればいいから」
「は!?」
「心配せんでも旅の出立まで出仕は無しだ。祝言だからな。早いとこ済ませよう」
一人暴走する父親を止めなければと頭の中では思っていた早苗だったが、あまりにも衝撃的な話のせいで、何もする気力が無くなり、すごすごと家に帰った。
ぼんやりと歩いたせいか、知らないうちに家の玄関に立っていた。
弱弱しく、家の中に向って声をあげた。
「ただ今戻りました…」
その声を聞きつけて出てきたのは千鶴だった。
すぐさま早苗の腰の物を受取ったが、早苗の様子がおかしいことに気付いた。
「義兄上。とてもお疲れの様子ですが。大丈夫ですか?」
早苗は、義妹にさっき勃発した大変な問題を打ち明けた。
「……俺、結婚しないといけなくなった。どうしよう」
そう言った途端、千鶴は大慌てし始め、助三郎を呼び始めた。
「え!?そんな……姉上!姉上!」
「千鶴、うるさい。どうしたの?」
慌てる妹の声を聞きつけ、助三郎が二人の前にやってきた。
千鶴は兄にさっき聞いたばかりの話をした。
「義兄上が結婚するそうです!」
「えっ。本当?」
「あぁ。どうしよう…」
「………」
なぜか助三郎は慌てず、黙りこんでしまった。
その様子を見た千鶴はなぜか怒りはじめた。
「姉上がぼんやりしてるから、義兄上が他の人の物になってしまうんですよ!捕まえておかないから!」
「だって…」
「格之進義兄上は助三郎兄上よりもずっとモテるんです!なんでわからないんですか!?」
「うるさい!あたしは早苗だけにモテればいいの!」
姉妹喧嘩が始まった。
仲裁しなければいけない早苗だったが、気疲れのせいか中途半端になってしまった。
「もういい!やめろ。もういい……はぁ…」
しかし、これが良かったのか大喧嘩にはならずに終わった。
「申し訳ございません。お疲れなのに……姉上のせいですからね!」
「ふん!知らない!」
千鶴はすぐさま頭を切り替え、冷静に事の次第を早苗に問いただし始めた。
「義兄上、誰と結婚するのですか?」
「美帆…」
「どこのみほさんですか?」
「佐々木家の美帆」
「ウソ!?」
姉妹二人の叫び声がこだました。
立ち尽くす助三郎に早苗は恐る恐るうかがった。
「助三郎、イヤだよな?いくらなんでも、俺が夫は」
「……でも、結婚って形だけ、藩に届け出するだけでしょ?義父上お得意の名簿改ざんするだけでしょ?」
助三郎の言うとおり、人事のような仕事をしている橋野又兵衛は改ざんが得意だった。
渥美格之進の身の上を偽造し、藩士にさせ、光圀側近にまで上がらせた。
彼の手にかかれば何でも可能だろう。
「あぁ。たぶん」
「だったら大丈夫。心配しないで」
思ったほど取り乱さない助三郎に早苗は若干感心したが、
彼に告げていないことが山とあることに気付いた。
祝言をすること、旅に出ること、期限が十日しかないこと。
ひとまず、明後日に迫った祝言について言うことにした。
「あの…明後日、祝言するって」
「……するの?」
「人はほとんど呼ばない。事情知ってる身内だけだ」
「だったら大丈夫。そんなに心配しないの!ついこの前やったでしょ?」
「そういえば、そうだな」
深く考えていない助三郎に、内心早苗はほっとした。
その晩、早苗の元に千鶴がこっそりやってきた。
もちろん、助三郎は風呂で居ない。
見計らってやってきた。
「美帆姉上は白無垢を着るのですか?」
「もちろん。わたしの着させるの。体格あまり変わらないから。胸はあっちの方が断然大きいけど」
未だに早苗は夫の女の姿の体格の良さに憧れていた。
同時に、自分の物足りなさを不満に思っていた。
「姉上、それ言うと怒りますよ」
「いいじゃない。うらやましいもん」
「そうですか?…でも、楽しみですね。お化粧ついにするんですよ!」
千鶴は念願の姉を飾り立てる夢が叶うのがうれしかった。
一緒に買い物に行った時に購入はしたが、結局猛烈に嫌がり飾り立てることはできなかった。
小物は代りに千鶴がすべて使った。
「何もなしであんなに可愛いんだから、お化粧したらどうなるかな?」
「お楽しみですね」
「うん」
助三郎は断固として化粧をしなかった。
しかし、身だしなみのため最低限のことはしていた。
髪結いはしてもらっていたが、髪飾りや結い方などは極力地味なものを選んでいた。
皆に残念がられたのは言うまでもない。
「暴れたら姉上、あれをお願いします」
「あれ?効くのかな?」
「絶対大丈夫です。お願いします」
妻と妹二人の綿密な計画を助三郎は知る由もなかった。