凌霄花 《第二章 松帆の浦…》
その女が、まだ自分に未練タラタラであれば接触などしたくない。
そうに違いないと早苗は思った。
「格さん、助さんと……」
丁度その時、早苗の視線の先を見知った顔が通った。
それは命の恩人、大工の平兵衛だった。
「弥七、急用だ。じゃ、今日はこれで!」
これ幸いと早苗は弥七の前から走り去った。
しかし彼は彼女の異変に気付いていた。
「……なんか隠してるな、ありゃ」
早苗は棟梁に駆け寄った。
どうやら吉良邸からの帰りらしい。大工道具を持っていた。
「棟梁! 平兵衛の棟梁!」
そう声を掛けると、彼はすぐに振り向いた。
「あ、これは早苗さ…… じゃなかった格さん」
にこやかな彼に、早苗は頭を下げた。
「その節はお世話になりました。おかげでこの通りです」
「よかったよかった。しかし、町人風体でも男前は男前だ、羨ましいねぇ……」
早苗は固まった。
『男前』言われたくない言葉だった。
「あ、しまった。『美しい』の方が良かったな。男も女も両方使える。とにかく、早苗さん、負けずに頑張りなよ」
平兵衛は早苗を応援していた。
彼の優しい言葉に、励まされた。
「……ありがとうございます」
「……何かあったら、家にいらっしゃい。お艶も待ってるんでね」
「はい。でも、その時はちゃんと女で窺いますね」
「そうだった。お艶が格さんに惚れたら困る! ハハハハ!」
早苗もそれは承知だった。
愛する男が去っても、女の子に走ることは出来ない。
「では、お艶ちゃんにもよろしくお伝えください。失礼します」
「へぃ。では、また」
別れた二人だったが、平兵衛は遠ざかっていく早苗の姿を振りかえり、怒りに燃えていた。
「旦那め……」
その日の夕方、仕事を終えて帰宅した早苗は、役宅にただならぬ気配を感じた。
門前に大八車。中ではクロがけたたましく吠え、お夏も声を荒げている。
しばらく様子をうかがっていると、お夏が飛び出して来た。
「あ、格之進さま。お帰りなさいませ」
「あぁ。それより、何かあったの?」
「はい。いきなり二人連れが押し入って来て、旦那さまの物を持ち出してるのです」
早苗は物取りだと判断した。
お夏から紐を借りて襷がけ、何があっても良いよう太刀の鯉口を切った。
「危ないからここで待ってろ」
早苗は役宅の中へ入った。
そこには見知らぬ男。
彼は助三郎の着物を風呂敷に包んでいた。
「おい! 何をやっている!」
男は驚いて腰を抜かしたが、早苗の質問には答えなかった。
代わりに声を上げた。
「奥様! 奥様!」
すると、奥から女が出てきた。
「騒がしいわねぇ。……あら? 渥美さま。お邪魔しております」
早苗はその場で立ち尽くした。
その女は彼女がこの世で一番嫌いな女。
助三郎と一緒に歩いていた女。
早苗の天敵。
弥生だった。
「……この役宅に何用ですか?」
感情を押し殺してそう聞くと、弥生は悪びれもせず答えた。
「旦那さまの荷物を引き取りに来ただけです。お構いなく」
「……荷物? なに故ですか?」
「この役宅は引き払い、我が屋敷に引っ越しするものですから」
早苗の嫌いな笑みを浮かべると、彼女は再び奥へ引っ込んだ。
茫然として、早苗はいったん庭に出た。
そこには、お夏とクロがいた。
真っ先に飛んできたクロは悲しそうに泣いた。
『あのいじわるおばちゃん、クロを蹴飛ばしたの』
「えっ。大丈夫か?」
生類憐みの令があるにもかかわらず御犬様のクロを蹴った。
とんでもない女だと、改めて早苗は怒りを覚えた。
しかし、クロは自慢げに報告した。
『うん。だから仕返しに、草履ボロボロにした』
早苗も胸がすく思いだったので、クロを思いっきり撫でて褒めた。
「褒美に後で遊んでやるから、外で遊んで来るんだ。いいね?」
『わかった。新助のとこ行ってお孝さんにおやつもらってくる!』
クロが居なくなると、早苗はお夏と向き合った。
「……如何でした?」
「物取りじゃないから大丈夫。だが、厄介だ……」
早苗とお夏は彼らの動向を見極めようと、庭で待つことにした。
薄暗くなった頃、どうやら用を済ませたらしい弥生が出てきた。
そのまま帰ると思いきや、彼女は早苗を呼び寄せた。
「少しお時間よろしいですか?」
居間で早苗は弥生と向き合って座った。
二人は何も言葉を発しなかった。
しかし、どこかで烏が一声鳴いた時、弥生はなぜか笑い始めた。
なぜか、早苗は嫌な予感がした。
それは的中した。
「……隠しても無駄よ。早苗」
正体を言い当てられ、驚きのあまり否定するのを忘れてしまった。
「……どこでそれを?」
「さぁ? どこだったかしら。忘れたわ、そんなこと」
そう言うと茶を啜り、早苗の嫌いな笑みを浮かべた。
ジロジロ舐めるように見た後、勝ち誇ったような顔で言った。
「どこからどう見ても見事に男ねぇ。可哀想に……」
早苗は彼女を睨みつけた。
「……お前に可哀想だなんて思われたくない」
弥生は、笑顔で嫌味を言った。
「赤ちゃん産めなかったのにね。ご愁傷様でした」
「うるさい!」
怒りだした早苗を軽蔑するかのように鼻で笑った後、弥生は嫌味を続けた。
「いくらでも言ってあげる。助三郎さまも嫌がってたのよ。夜布団に入ると、男のその身体を思い出して、萎えるって。気持ち悪くて抱けたもんじゃないって」
早苗は腸が煮え繰り返る思いだったが、それもそうかもしれないと思ってしまった。
彼が己を滅多に抱かなかった理由が、そこにあるのだと。
己が、半分男であるからだと。
「あ、良い事教えてあげる」
早苗はそんなもの聞きたくないと彼女を睨みつけた。
しかし、彼女は気付かないふりで勝手に話し始めた。
お腹に手を当てて。
「わたしのここにね、赤ちゃんいるの」
早苗の背筋が凍った。
「助三郎さまの赤ちゃんがね」
早苗は声が出なかった。
「あなたが産みたくても産めなかったあの人の赤ちゃん、わたしが産むの。応援してね」
そんなことできるわけがなかった。
大好きだった夫を取られ、子を産む権利まで取られた。
早苗にはもう何も残っていなかった。
だが、必死に耐えた。
「なに? その顔。おめでとうの一言も言えないの?」
早苗は女の心を押し殺し、手をついて頭を下げた。
格之進として、助三郎の同僚として。
「おめでとう、ございます……」
「ありがと。あ、そうそう、もちろん分かってるわよね? あなたはもうあの人と夫婦関係は一切無いってこと」
悔しかったが、悲しかったが、辛かったが、早苗は耐えた。
そして声を絞り出した。
「わかっています。同僚以外の関係は何も、ありません……」
弥生はそれを聞くと満足げに言った。
「そう。それを聞いて安心したわ。大好きなお仕事、正体がバレない限り頑張ってね。じゃ、さよなら、負け犬さん」
早苗は憎い弥生が消えるまで耐えた。
噛み締めた唇は血の味がしていた。
作品名:凌霄花 《第二章 松帆の浦…》 作家名:喜世