金銀花
その言葉を助三郎は覚えていたが、自身の経験から昼過ぎから体調に変化が出てくることを知っていた。
「千鶴、気をつけろよ」
「なんですか? いきなり」
「ん? なんでもない」
「変なの。では、舞の稽古に行って参ります。今日は義姉上もいらっしゃるんですよね?」
「うん。着替えが済んだらすぐ行くから、先に行ってていいわよ」
舞の師匠は、早苗の母ふくだった。
かなりの上手。若い頃その舞姿に惚れたのが早苗の父、又兵衛だった。
今では尻に引かれ、怖がる日々だった。
早苗はこの母にあまり似ず、夫にガミガミ怒る性格ではなかった。
ただし、似ている点もあった。舞と酒だった。
舞は生徒の中でも上位に入るほどの腕前だった。
京の都、祇園の芸妓の身代りもできるほど。
これは自慢になるが、酒はそうはいかなかった。
父も強いが母はさらに強い。そのせいか早苗はざる同然だった。
格之進の姿で、美帆と結婚した。その祝いの酒盛りの席で、職場の男どもを相手に飲み比べをした。そこで勝ち抜き、朝まで一人飲んでいたという武勇伝はかなりの人間が知ることとなった。
伊勢から戻った直後の事後処理をする為に出仕している間、若い他の職場の男たちに誘われて困った。それは助三郎が庇ってくれたお陰で、どうにか難を逃れた。
「早苗、千鶴を頼む」
「なに? いきなり改まって」
「なんでもない。気にかけてやってくれ」
「わかった。助三郎さま、今日一日ゆっくり過ごして、明日からの出仕頑張ってね」
「あぁ。お前は良いな。当分お休みだ」
「稼いでくれて、感謝してます。じゃあ、行ってきます」
「気をつけてな!」
その日一日助三郎は書見をしたり、素振りをしたり、昼寝したりと思う存分寛いだ。
夕方にやっと妻と妹が帰って来たが、千鶴の様子はおかしかった。
早苗は心配そうに千鶴に声を掛けていた。
「早く寝たほうがいいわ。風邪かもしれないから」
「はい……」
「どうした? 元気ないな」
そっと助三郎が聞くと、妹は体の違和感を訴え始めた。
「身体が重いんです。それに、硬くなったみたいで、柔かな動きができませんでした」
「ん? 声がおかしくないか?」
いつもより若干低い妹の声が気になった。
「……そういえば。咳は出ないんですが、風邪の前触れみたいな感じで」
「そうか…… 早く休め。寝れば治る。明日の朝にはな……」
「はい。では、お休みなさい」
自室に下がろうとする義妹に千鶴は心配そうに聞いた。
「千鶴ちゃん。夕餉はどうする?食べない?」
「食欲ありません。それに、眠い……」
「大変ね。風邪だわ……」
しかし、それは違った。
早苗は気付かなかったが、助三郎は知っていた。
身体に変化が始まる予兆だった。
明日になれば、弟が現れる。
妹の調子の悪さが少し可哀想になったが、明日になれば何でもなくなるのだと言い聞かせた。
弟とやりたいことが山とある助三郎は嬉しくて飛び上りたくなったが、妻の眼があるのでやらなかった。
それに、明日は出仕日。こうも浮かれてはいられないと思い直し、早苗と夕餉を囲む為に居間へ向かった。