金魚がぽちゃり
翌日。多軌は学校を欠席した。やはり体調が戻らなかったのか、と夏目は心配して見舞いに行ったが、現れた彼女は違うの、と首を振り、不安や戸惑いで落ち着かずとても勉強に身が入りそうにないので思い切って休んだのだ、と言った。
そして。
「私、あまりよく覚えていないんだけど」
少し目を伏せ頬を染めて、多軌は呟く。
「また夏目君に助けてもらった……んだよね?」
「覚えてないのか?」
「え……あの、少しは覚えているんだけど……その……夏目君が、私に……あの…………したこと、とか」
「あ……そ、そうか……」
夏目も耳まで赤くして俯いてしまった。
「ごめん……いくらなんでも、イヤだったよな。こんな……あの……俺と、その……するのは」
年頃の女の子になんて配慮の無いことをしてしまったか、と今更だが申し訳なくなり、消え入りそうに謝った。だが多軌は縋るような眼差しで、そんな夏目に問いかける。
「夏目君は……イヤ、だった?」
「え?」
「その……だから、私と、キス……するの。イヤだった?」
「まさか!」
慌てて首を振る。
「そんなことあるわけないだろう? 嬉しかったよ、すごく」
「え?」
「あ……あのっ……いや、別に前から狙っていたとか、そういう意味じゃないぞ? 本当にただ、多軌をなんとしても助けなきゃと思って夢中だった。だから無事だってわかったときには本当に嬉しくて。ほっとした。良かったって、泣きそうになった。そういう意味だ」
「夏目君……」
「本当に良かった。多軌が、こうして無事に戻ってきてくれて」
微笑みながら手を伸べて、前髪の乱れを直してくれる。
その仕草にドキドキしながら、多軌は密かに夏目が口にした言葉を噛み締める。
(嬉しかった……って。私が戻ってきて。無事だとわかって)
それを自分の方こそ嬉しいと思っているということは、まだわかってもらえていないみたいだけれど、それはまたいつか伝えれば良い。
多軌はそう思い定めるとそうだ、ちょっと待っていてと言って腰を上げ、別室からビニール袋を持ってきた。中には鮮やかな朱色の金魚が一匹、すいすいと元気よく泳いでいる。
「今日休んだのは、これを買いに行くためでもあったの。隣町で養殖をしている人がいるって聞いて。その池で生まれて育ったのをくださいってお願いして分けてもらったから、今度こそ本当の金魚よ。はい」
「え? いや。そんな」
あんな恐ろしい妖怪を預けてしまったのにこんなことをしてもらっては返って悪いよ、と夏目は手渡された袋を返そうとする。
けれどその手をやんわりと押し返した多軌はこんなことを言って微笑んで見せた。
「じゃあ来年、またお祭りがあったら一緒に行って、私のために一匹すくって?」
「あら、貴志君。それは?」
「多軌さんが、死んじゃった金魚の代わりにってくれたんです」
「まあ。良かったわねえ。せっかくうちに来てくれたんだからみんなで大事にしましょう。ニャンキチ君、いじめちゃだめよ?」
「ニャンゴロー、私の刺身を少し分けてやるからそれは我慢しなさい。いいね?」
家に帰り披露をすると、塔子と滋は嬉しげに歓迎してくれた。だが立て続けに説教されてしまった先生はたいそう不本意らしい。激しく鳴いて何やら主張している。けれど夏目はその猛烈な抗議も耳に入らない様子で美しい魚を眺め続ける。
その視線が恥ずかしいのか、ぽちゃり、と金魚は飛び跳ねる。水面に広がる輪模様が、天井にきれいな弧を描く。風鈴が涼しげにチリンと鳴って、新しい家族を歓迎する。
ただでさえ暑い季節だというのに今年は、更に何かと暑くなりそうである。
終