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凌霄花 《第三章 身を尽くしても …》

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<01> 帰って来たが……



 「いかん、いかん……」 

 助三郎は取り落とした簪を慌てて拾うと懐に収めた。
役宅の異変に気付いた彼は、すぐに家中を改めはじめた。
 仕事の書類、生活用品諸々は綺麗さっぱりなくなり、引っ越してきた当初の状態さながら。
人の営みが感じられない空間に、彼は一抹の不安を覚えた。
 しかし、すぐにその役宅を後にした。
 
 仕事があったのだ。
 
「……すまん、遅れた」

 待ち合わせの場所に、弥七は既に立っていた。
二人で歩きだすと、突然彼はニヤリと笑った。

「早苗さんに引き留められたんで?」

 助三郎は何も答えなかった。
代わりに、話の方向を仕事に向けた。

「……あの方はもう来たか?」

「へぃ。先程、そのお店に」

 彼の視線の先に、その店はあった。

「天河屋か……」

 旧赤穂藩出入りの商人。
その店に、家老の大石内蔵助が宿を借りる。
 間違いなく赤穂浪人たちを手助けをしている証拠だった。

「中に入って調べたか?」

「いいえ、これからで」

「そうか……」

 助三郎は大きく溜息をついた。

 やっと江戸に帰って来たのに……
 元気をもらい、癒されるつもりだったのに……

 疲労が溜まり、体も心も砕ける寸前。
 生気を吸い取られたかのようだった。 

「助さん、帰んな……」

 弥七は彼の顔も見ず低く言った。

「なんで?」

「今日は大きい動きはなさそうだ。明日に備えて、帰ったほうが身の為だ。そんなんじゃヘマする」

 仕事に私情を持ちこんだ。
弥七が苦言を呈すのもうなずける。

「すまん……」

 彼は大人しく、その場を後にすることに決めた。
 




 あの役宅は何だったのか?
 なぜ、もぬけの殻なのか?

 彼の鬱々とした考えとは逆に、江戸の町は賑やかだった。

 物売りの声、子どもの笑い声、喧嘩する声……
 彼ははっと我に帰り、顔をあげた。

「俺は間違ってない! 変な方向に考えるのはやめだ!」
 
 元から酷く落ち込まない性格である。
 大きく伸びをすると、顔を叩いて喝を入れた。
 その途端、腹の虫がぐうと鳴いた。

「まずは飯だな」




 屋台で腹ごしらえしている彼の耳に、どこからか犬の鳴き声が聞こえた。

「……クロ?」

 食事をそそくさと終えると、彼はどこからその声が聞こえてくるのかと辺りを見回した。
すると突然、往来の人混みがサッと別れた。

「お犬様だよ!」

「こら、危ないから近づくんじゃない!」

「あぶねぇ、あぶねぇ……」

 皆、『犬』を怖がり避けていた。
その中、助三郎は堂々とその犬の名を呼んだ。

「クロ!」

 呼ばれたクロは、大好きな飼い主の元へまっしぐらに走って行った。


 久しぶりに再会した一人と一匹は、役宅への道を歩んでいた。
抱っこしてもらえることがうれしいクロは、始終上機嫌だった。

『帰ったら遊んでね』

「あぁ、遊んでやる」

『絶対だよ!』 

 遊ぶのが大好きな彼の頭をグシャグシャッと掻くと、彼は気持ち良さそうに眼をつぶった。

「……そういえば、お前さっき何してたんだ?」

 役宅にいなかったクロ。
なぜあのような往来にいたのか。

『お孝さんと遊んでたんだけど、イヤな猫がいたから追いかけてたの』

「おっ。捕まえたか?」

『逃げられちゃった。でも、代わりに助さん捕まえたよ!』

 助三郎はご機嫌な犬に笑みを浮かべた。
彼も大事な家族。癒しである。
 先ほどよりはずいぶん心が軽くなっていた。 
 ……しかし、彼には心配事がまだある。

「お手柄だな…… ところで、クロ、早苗は今日仕事か?」

 すると、元気なクロの耳が垂れ、悲しそうに鼻を鳴らした。

『わかんない。ずーっと居ないから』

「ずっと!?」

 クロの言葉に、助三郎は驚いた。
空の役宅。そこに居なかったクロ。早苗の不在……
 助三郎の動揺とは裏腹に、犬のクロの悩みは可愛い物だった。
 
『……寂しかったから、虎徹に会いに行ったの。そしたら、助さんも早苗さんも忙しいんだから我慢して待ってなさいって怒られちゃった。でも、いつまで待てばいいの?』

 助三郎の愛馬でクロより先輩の虎徹は、真面目で厳しい性格だった。
いつまでも子供のように無邪気なクロに、彼の説教は少し堪えたようだ。

 しかし、犬に難しい事はわからない。
不安にさせぬよう、笑顔を作った。

「……もうちょっとだけ待てるか?」

『うん、待てる!』

「よし、偉いなクロ。で、虎徹は藩の馬小屋だな?」

『うん』


 その後、助三郎は愛馬を迎えに行き、役宅へと戻った。
そして早苗を待った。
 いつもどおりに帰宅すると信じて…… 

 しかし、彼女が姿を見せることは無かった。





 次の日の朝、助三郎は藩主に謁見しに上屋敷へと向かった。
これまでの報告と今後の動きに関する見解を一通り述べると、綱條は深い溜息をついた。
 
「すまぬな、いつ終わるかわからぬ仕事……」

「いえ……」

「そなたも相当疲れが見える。渥美も限界かもしれんな……」

「……え?」

 ぎくりとした助三郎は、主を見た。
恐ろしい言葉が来るのではと身構えた。

「……しばらく休みが欲しいと言ったので、水戸に帰らせた。まぁ、そなたも戻って来たことだ。そろそろ帰るだろう」

 その言葉にホッと胸を撫で降ろした。
 心がやっと落ち着いた瞬間であった。
 
「二人には労をかけるが、また励んでくれ」

「はっ!」

 彼は久しぶりに、やる気に満ち溢れていた。




 
『早苗さん、もうすぐ帰って来るの?』

 早苗をよろしく頼むという旨の文を水戸の母へ認めている彼の後ろで、クロは布団の上に陣取っていた。

「あぁ。帰って来るぞ…… あれ? お前自分の布団はどうした?」

 いつもお気に入りの布団で寝るはずのクロ。
しかし、なぜかその晩は助三郎の布団の上だった。

『クロの布団、どっか行っちゃったの。昨日は我慢したけど今日は一緒に寝てもいいでしょ?』

「探さないとな…… まぁ今晩は一緒に寝よう」

 クロは大喜びで布団の中に潜り込んだ。

 笑みを浮かべて眺めた助三郎は、仕事用の机の上に置かれた包みに手を伸ばした。
中から出てきたのは、簪。
 しみじみと眺めていると、いつの間にやらクロが覗き込んでいた。

『どうしたの? それ』

「早苗にあげるんだ。いいだろ? あの櫛とお揃いの柄なんだ」

 彼女への最初の贈り物。
それと同じ柄の簪。
 しかし、『おそろい』がすべての理由ではない。
 その櫛を選んだ理由には、もっと深い訳があったのだった……





 あくる日、助三郎は町人姿で弥七と張り込んでいた。
 場所は高輪泉岳寺。
 大石内蔵助が現れるという弥七から連絡を受けてのことだった。
二人は人目に付かないよう、茂った樹の上で様子をうかがっていた。


 その日、彼は泉岳寺に主の墓参りとして訪れていた。
もちろん、一人ではない。
 多くの旧赤穂藩士が大勢集まっていた。

 亡主君の墓参りを滞りなく済ませると、一団の中から一人の男が出てきて内蔵助に声を掛けた。
それは、堀部安兵衛だった。