凌霄花 《第三章 身を尽くしても …》
いかにも『浪人』風体の彼の姿は、市政に溶け込む為の物。
『高田馬場の仇討』で江戸中に名を知られている彼、目立たぬようにするのに苦労していた。
しかし、その甲斐空しく、身なりをきちんと整えた者が多く集まっていたその日は、目立っていた。
「大石殿、御目通りを請う者が居るのですが……」
「どちら様かな?」
「不破数右衛門にございます」
その名を聞くと、内蔵助は笑みを浮かべ面会を承諾した。
「数右衛門! 許しが出たぞ。出てこい」
その直後、物陰から男が現れた。
これまた、安兵衛に負けず劣らない『浪人』だった。
しかし彼は、一同とは少し違った形の『浪人』。
皆は主君を無くして浪人に、彼は主が生きているうちに浪人に。
それは、浅野内匠頭の勘気に触れたせいであった。
普通の人間なら、そこで藩と主を見限り、他藩に仕官する。
しかし、不破数右衛門は違った。
「しかし、数右衛門。その様子だと、まだ浪人か?」
内蔵助は残念そうにそう聞いた。
「はっ」
「お前の槍の腕なら、引く手あまたと思ったんだが…… 世の中案外甘くないものだ」
へらへらと笑う内蔵助。
数右衛門は顔を上げてキッと睨んだ。
「無かったわけではありませぬ! 仕官をしなかったのです!」
言い返した彼を面白そうに内蔵助は見た。
「それまた何故? まぁ、一人身なら、自由気ままな生活も悪くは無い」
『昼行燈』な彼に数右衛門はムッとした。
そして躊躇うことなく言い切った。
「それがしの主は、亡き殿ただ一人にございます! どうして二君に見える事がございましょうか!?
私は、殿の墓前に参れない臆病者たちとは違います!」
目上の者に、物おじせず物申す。
これこそ彼が浪人になった原因だった。
しかし、その言葉を聞いた内蔵助は感動していた。
多くの藩士が、仇討の盟に加わらずに去った。
他藩に仕官の口を探した。
しかし、この男は己をクビにした主を今でも慕っている。
このような仲間こそ必要である。
彼は心を決め、態度を改めた。
「数右衛門、その心根感じ入った。……して、安兵衛から何か聞いたか?」
どこに密偵が居るかわからない。
多くを語れない内蔵助だった。
しかし、志を同じにした男たちに多くの言葉は要らなかった。
「……それがしを仲間に入れてくださいませ」
まっすぐ見詰めるその眼の奥には、静かな闘志が燃えていた。
内蔵助は満足げに頷いた。
「……わかった。許そう」
「ありがとうございます!」
一部始終を見ていた助三郎はボソッとつぶやいた。
「俺の本当の主は、御老公だ……この仕事は、御老公のためだ……」
弥七は何も言わず、静かに聞いていた。
次の日、助三郎は久しぶりに職場へと顔を出した。
笑顔で皆に歓迎されたが、彼には素晴らしい物が待っていた。
「これを、全部!?」
彼の眼の前には、見事な書類の山が聳え立っていた。
「そうだ。これだけ溜まった。頼むな」
うんざりした彼が書類の山を突くと、大雪崩が発生した。
それを見た上司は怒りをあらわにした。
「グチャグチャにしおって……」
「申し訳ございません……」
助三郎は素直に謝った。
喰ってかかってこれ以上の仕事を回されたらたまったものではない。
急いで雪崩を起した書類の山を整頓し、仕事に取り掛かった。
「よし、真面目にやるのだぞ。お前は本気さえ出せば出来る。期待しておるからな」
「はい……」
しぶしぶ筆を執った助三郎だった。
しかし……
久しぶりに仕事をしたせいか、はたまた厳しいお目付役の不在のせいか……
彼の集中はあっけなく途切れてしまった。
しかも運悪く、他所事をしている様を先ほどの上司に見られてしまった。
「『この仕事 俺にはやはり 向いて無い 早くお昼に なればいいのに』……なんだこれは?」
それは筆拭きに使っていた半紙に書いた落書き。
みるみる眉間に皺が寄る上司に、助三郎は弁明などしなかった。
「あ、季語入ってませんでした。失敗作です」
ニヤッとすると、上司はキレた。
「こんな落書きしてる時間があったら仕事せい! どれだけ仕事が溜まってるのかわからんのか!?」
そしてしばらく、助三郎の説教が続いた。
彼が長い説教に耐えている時、職場に若い侍がやってきた。
「失礼します…… 佐々木は…… あ、居た! 久しぶり!」
彼は助三郎を見つけて嬉々とした様子。
「あ、九壱。江戸に来てたのか? 久しぶり!」
助三郎も、説教そっちのけで彼に挨拶。
彼は助三郎の同世代の友人。名を白井九壱郎と言った。
藩内で起こった事件や事故の調査、問題解決を担当する部署に詰めている。
その彼が、助三郎に用事があるという。
「例の件で江戸にね。その話があるんだけど…… お取り込み中みたいだから、明日にしようか?」
怖そうな助三郎の上司に睨まれ、九壱郎は首をすくめた。
しかし、助三郎は彼の登場を救いと見た。
「あ、いや、明日は忙しい。今が良い! ということで、少々お時間を……」
そう言ってみたものの、上司は首を縦に振らず。
「……逃げる気か? 佐々木?」
助三郎も引かなかった。
「午後からは真面目に仕事します! どうか! お時間を!」
「ダメだ」
それからしばらく二人の押し問答。
なかなか終わらないので、九壱郎は大あくび。
しかし、最終的に上司が負け、助三郎の退出を認めた。
「もう良いわ! しかしな、なるべく早く帰れ。いいな? さもないと残業だ!」
ようやく解放された助三郎は思いっきり伸びをした。
反省の色などどこにもない。
「助かったよ。息抜きできる!」
九壱郎も彼と同様、いや同種の人間だった。
「俺も息抜きさ。ここの人たちさ、お茶も飲まないんだよ。やってられないよ!」
助三郎は彼を見つめてにやりと笑った。
「いや、俺たちが不真面目なだけだ」
「それもそうだね」
彼は助三郎の幼い時よく遊んだ仲間の一人。
もちろん、彼は早苗と面識もあった。
しかし、出仕が異常に早かった助三郎と違い、彼は働き始めたばかり。
近頃逢う機会が格段に増え、旧交を温めていた。
「で、話ってなんだ?」
九壱郎は声を低くして周りを見渡した。
「あんまり人に聞かれたくないんだよね…… 助ちゃん、庭行こう」
彼の思うところがわかる助三郎は、大人しく彼にしたがった。
「わが藩のお庭は最高だね。密会場所はよりどりみどり」
彼の言葉通り、水戸藩上屋敷の庭は多くの建物があった。
「御老公の趣味だ」
助三郎はにこやかに答えた。
一度、その中の一つの茶室に早苗と共に案内されたことがあったのを、思い出していた。
「よし、あそこにしようか」
「あぁ」
二人は樹が茂った森の中の小さな茶室に入った。
茶室の中で、二人は真剣な眼差しで話し始めた。
「あれは、どうなった?」
「牢屋に入れたよ」
作品名:凌霄花 《第三章 身を尽くしても …》 作家名:喜世