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凌霄花 《第三章 身を尽くしても …》

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「なによ」

「君の弟ちゃんからの文」

「……え?」

 すこし嬉しそうな顔をする彼女。
九壱郎は再び笑みを浮かべて言った。

 しかし、その顔は仕事上の冷徹な九壱郎だった。

「……ごゆっくり、弥生殿」


 その場を立ち去る彼の背中に、女の叫び声が突き刺さった。

「嘘よ! 嘘に決まってる!」

 実の弟に見捨てられたことをようやく知った弥生は、絶望のどん底に落ちた。





 その晩、助三郎は真夜中に突然目覚めた。
ひどい寝汗と、泣き腫らした眼。
 何か悪い夢を見たらしいが、一切記憶にはなかった。

 しかし、彼は己の右手が何かを握り締めていることに気付いた。
それが何かわかった途端、血の気が引いた。

「……嘘だろ」

 彼の手の中にあったのは、魔除けの御守り。
間違いなく、早苗に渡した物。
 そしてもう一つは櫛。
 白い花が散らしてある櫛。早苗に贈った櫛だった。

 すぐに助三郎は役宅中を調べた。
しかし、人が立ち入った形跡は無し。

「早苗! 一体どこに居るんだ!?」

 呼んでも答える者などいない。
しかし、助三郎は呼んだ。

「早苗…… どこだ…… 帰ってきてくれ…… 俺を一人にしないでくれ……」

 もはや限界に近かった。




 寝つきが悪かった助三郎を、朝早く起こす者がいた。

「おはよう助さん」

 それは、旅装に身を固めたお銀だった。

「……あれ? お銀?」

「ごめんなさいね。起しちゃって」

 気だるい身体に鞭打ち、置き上がった助三郎。

「……何か用か?」

「これから発つから、報告に来たの」

「あ、そうか、今日帰る日か……」

 その日は内蔵助が京に向かって江戸を発つ日。
お銀は引き続き動向を探る予定だった。

「すまないな……」

「いいの。わたしたちはこれが生業だから。それに、すぐに戻ってこられるから気にしないわ。……来年の三月には、すべて終わるといいわね」

「そうだな……」

 お銀は立ちあがると、助三郎に言った。

「助さんは明日にでも水戸に発ちなさい。いい?」

「わかった……」

 気が重かった。
しかし、やらねばならない。

「ちゃんと早苗さん探し出して、誤解解くのよ」

「あぁ」
 
 お銀を見送った助三郎は、早速その日中にすべきことに取り掛かった。

 上屋敷に参上し、一部始終を藩主に報告した。
そして、水戸への帰郷を認めてもらい、出立の準備をしていた。

 と、そこへ来客が。
 由紀と与兵衛だった。
 
 顔を見に来たという彼と少し話し、由紀から彼女の捜索状況報告を聞いた。

「ごめんなさい。何も手掛かりなかったの」

 由紀は精一杯早苗を探した。
しかし、何も見つかりはしなかった。

「ありがとう。これでよく分かった。やっぱり早苗は水戸に居るんだ……」

 改めて助三郎は、これから水戸へ戻る重大さを噛み締めた。

「明日、探しに行く……」



 するとそこへ、藩邸から助三郎宛に文が届いたと、使いの者がやってきた。

「……誰からです?」

 与兵衛が静かに聞くと、助三郎は差出人を見て叫んだ。

「早苗からだ!」

 それは早苗が生きているという証明。
助三郎はそれだけで安心し、笑みをこぼした。

「よかった…… 生きてた……」

「よかったですね。早く読んだほうが良いですよ。何か書いてあるかもしれません」

 助三郎は急いで封を切り、文を読み進めた。
しかし、すぐに彼の顔から笑みが消えた。
 
 そして、読み終わった彼はそれを畳むと二人に言った。
 
「今まで、ありがとうございました。御迷惑おかけしました……」

「それで、早苗は?」

 気が急く由紀。
 助三郎は力なく言った。

「手遅れだった……」

「ちょっと、どういうことよ!? ねぇ!」

 今にも掴みかからんばかりの彼女を、与兵衛が抑えた。

「由紀落ち着いて。助さん、どういうことですか?」

 しかし、彼は虚ろな眼差しで彼らに背を向けた。

「すみません、失礼します……」

「どこ行くのよ!?」

 急いで止めた由紀。
助三郎はぼそぼそと言った。

「仕事…… 水戸に行く必要無くなったから……」

「……なに? 結局、早苗より、仕事のほうが大事なの?」

 助三郎は何も言わなかった。
 それが、由紀に火をつけた。
 
「仕事を口実にしてるでしょ! 仕事で忙しい。仕事があるからって!
そのせいで関係がおかしくなったんでしょ!? 早苗と仕事、どっちが大事なの!?」

 これに対し、どなり声を上げたのは、助三郎ではなかった。

 与兵衛だった。

「黙れ由紀!」

「えっ……」

 彼女は驚き、言葉を失った。
いままで一度も彼に怒鳴られたことがなかったのだ。

「お前も仕事やってたろ!? わかるだろ!? 男女の関係と仕事は別だ!」

 まるで別人のように怒鳴る彼に、助三郎も驚いた。

「与兵衛さん、由紀さん怖がってますよ、少し落ち着いて……」

 しかし、彼は止まらなかった。
彼は容赦なく、激しい言葉を浴びせた。

「色恋沙汰と、仕事を秤にかけるなんて考えが甘すぎる!」

 由紀は夫の言動に衝撃を受け、その場から逃げるように走り去った。
 しかし、与兵衛は彼女を追おうとはしなかった。
 
「……与兵衛さん、大丈夫ですか?」

「あ、これは、失礼しました。つい、カッとなって……」

 常にない彼の様子が気になった助三郎だったが、与兵衛は彼に質問する間を与えなかった。

「助さん、本当に行かなくていいんですか?」

 すでにいつもの与兵衛。
それに安堵した助三郎だったが、落ち込んだ気持ちは戻らなかった。

「いえ、余計、辛くなるだけなので……」

「どうして?」

「早苗は、もう早苗でも格さんでもないんです…… 別人です…… 新しい彼を受け入れる準備をしないと……」

 そう言って与兵衛に背を向けると、フラフラと歩き始めた。
すると、彼の懐から文が落ちた。
 
「助さん、文が」
 
 しかし、彼は振り向かなかった。
 与兵衛は心の中で謝り、文を開いた。

 そこには、男の文字が並んでいた。


一、仕事を怠けるな
二、連絡を怠るな
三、弥生殿と腹の子を大切にしろ
四、早苗は始末つけるから、安心しろ

 そして、最後に、滲んだ小さな走り書きがあった。


 『できるなら、佐々木助三郎の親友になりたい』