凌霄花 《第三章 身を尽くしても …》
「わたしは不要な人間。だから、水戸に帰って、必要な人間になってから江戸に行くの。もう決めたの」
「どうしてもですか?」
「どうしても」
いつしか早苗が説得する筈だったにもかかわらず、お夏が説得し、早苗が拒む図式になってしまっていた。
夜が更けても一向に収拾は付かず。
困り果てた二人はその夜はお仕舞いと言うことにし、別れた。
いつもより夜更かしをしてしまった早苗が欠伸を噛み殺しながら布団に入ったその時。
風の音に混じって聞こえてくるものがあった。
『……早苗……』
どこからか己の名を呼ぶ声。
なぜか背筋がぞくっとした。
耳をそばだてたが、それ以上聞こえることはなかった。
空耳だと決めつけると、彼女は布団の奥にもぐりこんだ。
次の日、朝からお夏が説得に来た。
しかし、早苗は逃げた。
「格之進さま。お話しの続きを……」
「これから手習いの授業だ。また後で!」
「絶対ですよ!」
しかし、その後も彼女は下女から逃げた。
「格之進さま!」
「ごめん! 住職さんに呼ばれたんだ、また後で!」
早苗を呼びだした住職は、彼女に珍しい古文書を差しだした。
大日本史編纂に携わる者として有り難く借り受け、読みふけった。
「格之進さま」
その夜、幾分声に怒りがこもったお夏が早苗の横にやって来た。
「ごめん、話しはあとで」
「夕餉の支度ができました」
「あ、そうか。ありがとう」
借りた古文書がおもしろく、早苗はその夜も夜更かしをしてしまった。
そして、再び……
『……早苗……早苗……』
声が聞こえた。
その声は間違いなく、自分の名を呼んでいる。
警戒して息を止め気配を殺した。
『……どこだ? ……早苗……』
しばらくすると、声は部屋の前を通りすぎて消えた。
恐ろしくなった早苗は、守袋を懐に入れた。
それは助三郎に貰ったもの。
しかし、送り主など関係ない。
とにかく神様に守ってもらいたい。そう考えた末だった。
「これで大丈夫だろう……」
しかし、その次の晩。
それはまた現れた。
『……早苗 ……どこだ? ……どこに居る?』
毎晩続く謎の声。
早苗は寝不足に悩まされた。
悩みぬいた末、住職に事の顛末を話した。
信じてもらえないに違いないと思っていたが、彼は熱心に聞いてくれ、適格な助言までくれた。
「私の弟はそういった類の専門です。弟のところにお行きなさい。早い方が良い」
早苗は住職に紹介状を書いて貰うと、すぐに出立した。
日が少し傾いたころに彼女は山奥の寺に居た。
寺の主の妻と見える女に紹介状を預けると、快く中に通してくれた。
本堂でしばらく待っていると、その寺の主が現れた。
「お待たせしました。兄の紹介ですね? 清澄と申します」
微笑みを湛え、穏やかな声でそう名乗った彼に、早苗の緊張は和らいだ。
「渥美格之進でございます。よろしくお願いいたします」
清澄は笑顔のまま早苗がドキリとする質問をした。
「……もう一つのお名前も教えてくださいますか?」
自分の正体が見抜ける。常ならぬモノに動じない。
この人は信ずるに足る。
早苗はそう直感した。
「早苗、と申します」
「早苗さま。あ、よろしいですよ。お好きな方の姿で。しかし、いろいろ憑いていますね」
清澄は早苗の周囲を見てそう言った。
「……そんなにいますか?」
早苗自身も分かっていた。いつでもどこかで自分を見ている人でないモノの気配。
「はい。とてもたくさん。しかも皆、手馴れた者たち…… よく無事に過ごされてきましたね」
「いえ、無事ではありませんでした……」
早苗はいままで経験した出来事をすべて清澄に話した。
彼は早苗の話を熱心に聞きくと、すぐさま行動に出た。
「あなたさまのお命を守るため、二度と悪鬼悪霊にとりつかれぬよう祈祷しましょう」
清澄は念入りに早苗を祈祷した。
そのおかげか、肩が軽くなり、心もすっきりとしたように彼女は感じていた。
「悪い者は皆去りました。あなたの守護霊達も本来の力をようやく取り戻したようです」
「守護霊。ですか?」
「ご先祖さまですよ。あなたを守ってくださいます」
早苗は深々と頭を下げ、清澄と先祖の霊に感謝の意を表した。
「あなたさまの守りは万全になりましたが、念のため少し様子を見たいのです。今晩はここに泊まっていただけますか?」
「はい。清澄様がそうおっしゃるのなら」
素直に申し出を聞き入れ、彼女はその晩泊まることにした。
安心しきっていた早苗だったが、清澄の一抹の不安は当たっていた。
彼の言うとおり、悪鬼悪霊は早苗の周りからすべて姿を消し、守りは強固な物となった。
しかし毎晩早苗を悩ませた声は、それでは防ぐことができない物だったのだ。
声はまた現れた。
『早苗。どこだ?』
周囲の様々な悪いモノを祓ったせいか、その声は鮮明に早苗の耳に届いた。
「あの声は…… まさか、助三郎?」
うっかり名を口に出してしまったその瞬間。
『早苗!?』
声の主があろうことか、部屋に入って来た。
それは、助三郎の姿をしていた。
『早苗! やっと見つけた!』
襖を開けずに入って来たそれ。
早苗はすぐに足を見た。
幽霊ならば足が無いはず。
しかし、足はあった。
得体のしれないモノに、早苗は尋常でない恐怖を覚えた。
「来るな!」
早苗は部屋を飛び出し、
「清澄様! お助け下さい!」
本堂に逃げ込んだ。
しかし、助三郎の姿をしたモノは何の迷いも無く、早苗の後を追ってきていた。
『早苗。待ってくれ…… なんで逃げる?』
早苗は必死に祈った。
先祖に祈り、神に祈り、仏に祈った。
しかし。
全く効かなかった。
どんどん近付くモノを眼の前にして、恐怖で身体が震え始めた。
『大丈夫か? なにか怖いのか?』
助三郎の姿をしたそれは、早苗に腕を廻した。
殺されると思い身構えたが、
『俺が守ってやる。二人でいればなにも怖くない』
優しく抱きしめ、そう囁いただけだった。
その時、ようやく清澄がやって来た。
「大丈夫ですか!? これは!」
恐怖で凍りついていた早苗だったが、清澄の声を聞くと我に帰り、助三郎の姿をしたモノの腕の中から力ずくで逃げ出した。
「清澄様! お助け下さい!」
その瞬間、助三郎の姿をしたそれは豹変した。
『早苗は俺のものだ! 誰にも渡さない!』
直ぐに腕を掴まれ、凄まじい力で引き寄せられ抱きすくめられた。
異常な力のせいで、早苗は抜け出すことが出来なかった。
「離しなさい! 離すんだ!」
清澄は凄まじい形相で怒鳴った。
それに対抗し、助三郎の姿をしたそれも噛みついた。
『嫌だ! 早苗は俺のものだ! やっと見つけたんだ! 誰が離すか!』
たがいに睨みあってしばらく時が流れた。
恐怖のどん底に居る早苗は、その睨みあいは永遠に続くのではないかと思ってしまうほどだった。
「いかん。これは……」
突然、助三郎の姿をしたそれの正体に清澄は気付いた。
作品名:凌霄花 《第三章 身を尽くしても …》 作家名:喜世