凌霄花 《第三章 身を尽くしても …》
「お前何やってた!? 気は確かか!?」
黙ったままの妹。
胸ぐらを掴み、叱責する兄。
下女は主を守ろうとした。
「平太郎さま! 違います! わたしはただ……」
「無傷だな? 何もされてないな?」
「はい」
「お前は早苗の、佐々木家の下女だ。なにかあったらいかん。ここは俺に任せて行け」
お夏は早苗の様子を心配そうに伺いつつも、大人しくその場を立ち去った。
平太郎は、早苗に目をやった。
黙ったまま、大人しく座っていた。
安堵した彼は、声を和らげ、至極普通に話しかけた。
「久しぶりだな。元気だったか?」
返事はなかった。
「父上も母上も心配してたんだ。とにかく、無事でよかった。でもな、一番心配してたのは……」
早苗は兄の言葉をさえぎった。
「兄上、秘薬をください」
「……なんの?」
「女の記憶を消し、身も心も男になれる秘薬を!」
「無理だ」
「なぜ!?」
「あれはそう簡単には作れない。お前の場合、助三郎直筆の承諾書を燃やした灰と、助三郎の髪の毛、助三郎の血が要るんだ。あいつはいま江戸だ。作れない。それに、良く考えてみろ。一生無理だ。お前にベタ惚れのあいつが、そんな承諾書を書くわけがない。それはお前が一番わかってるはずだぞ」
話し続ける彼は、妹の怪しい動きに気付かなかった。
彼女は置きっぱなしにされていた、兄の小刀を抜き放ち、首に当てた。
「おい! 何してる!?」
彼はすぐさま刀を奪った。
「バカな事は考えるな! 死ぬ気か!? ……おい、早苗?」
早苗の身体が畳に崩れ落ちたことに驚き、刀を見た。
刃には、真っ赤な血が付いていた。
「大丈夫か!?」
早苗は自分の首を斬っていた。
首から真っ赤な血がとめどなく流れていた。
「バカ野郎! なんでこんな事した!?」
怒鳴る兄に、早苗は笑みを浮かべた。
「楽になりたかったんです…… もう、これしか、道は残って無いでしょう?」
「バカ野郎!」
騒ぎを聞きつけたお夏が走ってやってきた。
彼女は凄惨な場を目の当たりにし、泣き叫んだ。
「早苗さま!? なぜ!? なぜこんなことを!?」
「お夏、いままで、ありがとう…… ごめんな、散々迷惑かけて…… でも、あの人と、幸せになってくれ……」
「早苗さま! 嫌です!」
すぐに屋敷中は大混乱となった。
女が泣く声、男が怒鳴る声で満たされた。
その中、平太郎は必死に妹の名を呼び、血塗れになりながら止血を試みていた。
当の早苗は次第に青ざめて行ってはいたが、穏やかな笑みを浮かべていた。
「……兄上。お着物が、汚れますよ。義姉上に、怒られます」
「喋るんじゃない! 医者はまだか!?」
しかし早苗は話し続けた。
「……兄上、もう、おやめ下さい」
「黙ってろ!」
「最期まで迷惑かけて、申し訳ありません…… 可愛くない弟で、申しわけありません……」
「お前は俺の妹だ! 弟じゃない!」
兄はたった一人の妹を失うかもしれないという恐怖と闘っていた。
いつしか涙が頬を伝っていた。
「生きるんだ! しっかりしろ!」
血を多く失った早苗の意識は混濁し始めた。
「助さん…… お前の側に居たかった…… 親友としてなら、お前の側に居られた…… その為に…… この胸の女心を消したかった…… でも、無理だった…… だから……」
助三郎を想いすぎたあまり、またしても自害を図った妹。
彼女を不本意ながら再び傷つけてしまった義弟。
二人の過酷な運命を平太郎は恨んだ。
「早苗! しっかりしろ!」
「助三郎…… 俺は……」
とうとう早苗は気絶した。
「早苗! 目を覚ませ! 早苗!」
妹の名を呼び続けていたが、彼はあることを思い出した。
それは、早苗が助三郎を庇って斬られた際に出来た傷のこと。
格之進の姿で斬られたせいか、傷痕は格之進の身体にしか存在しない。
早苗は、格之進として自害を図った。斬ったのは、格之進の首。
もしかしたら……
彼は賭けに出た。
「父上! 解毒剤を!」
夜中。
橋野家の客間には橋野家の一同と、姑の美佳、義弟の千之助が不安な表情を浮かべて集まっていた。
そこへ更に、平居と早苗と助三郎の上司、後藤が加わった。
しばらくすると、身形を改めた平太郎が皆に早苗の状態を告げにやってきた。
「命に別状はありません。お騒がせして申し訳ありませんでした」
「よかった……」
皆はほっと安堵し、互いに顔を見合わせた。
平太郎は報告を続けた。
「医者に一応診せたところ、極度の貧血といわれました。滋養をつければ、二三日で元に戻るそうです。首を斬った跡ですが、解毒剤で格之進を消したので、全く残りませんでした」
「格之進に、礼を言わんとな……」
解毒剤で格之進をこの世から消した。
おかげで早苗は助かった。
「しかし、また自害を図るかもしれません…… 早く早苗の誤解を解かなければいけないのですが……」
身内がいくら言っても聞かなかった。
一体どうすれば、いいのか。
その場は重苦しい空気で満たされた。
すると、美佳が声を上げた。
「橋野さま、早苗さんが目を覚ましたら、話をさせてください。こうなった原因はこちらの身内の不始末。責任を取らせてください」
一同は彼女に早苗を託すことにした。
次の日の朝、早苗は目を開けた。
「……早苗さん。気分はどう?」
側にいた美佳は、優しく声をかけた。
しかし、早苗は布団の中に潜ってしまった。
「早苗さん、話しがあります」
布団を引きはがすと、早苗は泣いていた。
「放っておいてください…… こんな死に損ない……」
「放ってはおけません。とにかく、わたしの話を聞きなさい」
美佳は『助三郎』という単語を出さずに、話し始めた。
そのせいか、早苗は大人しく聞いていた。
大叔父伊右衛門が弥生と結託し、早苗を追い詰めたこと。
それに怒った助三郎が、大叔父を殺めてしまったこと。
しかし、それは仇討となり、罪にはならなかったこと。
江戸に登っていた弥生が、助三郎を脅していたこと。
すべての真実が、やっと早苗に伝わった。
「これでもまだ息子の不義を疑うのなら、自害でもなんでもなさい。止めはしません」
早苗の誤解が解けた。
助三郎の、命を掛けた愛にようやく気づいた。
「助三郎さま、申し訳ございませんでした。本当に申し訳……」
早苗は泣きじゃくった。
愚かな自分の行為を悔いた。
助三郎との『刀を抜かない』という約束を破った。
助三郎の友『渥美格之進』を葬ってしまった。
助三郎が一度救ってくれた命を、再び断とうとした。
猛烈に悔いた。
美佳は大泣きしている早苗をしっかりと抱きしめた。
「……貴女は悪くない。いろいろ辛いことが有りすぎて疲れたの。それだけ」
早苗は泣いて泣いて泣きまくった。
いろんなものを吐き出し、早苗は少し落ち着いた。
そして、美佳に言った。
「わたし、もう助三郎に顔向けできません……」
作品名:凌霄花 《第三章 身を尽くしても …》 作家名:喜世