古書屋敷殺人事件
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東京神田は神保町。明治期から続く古書店が軒を連ね、一歩裏道に入れば、低い木造り二階建ての建物が立ち並ぶ。古い街を私は全速力で疾走していた。季節は夏、彼岸を過ぎたとはいっても、うだるような暑さである。猛烈な熱を放出する都心の路を走るとは正気の沙汰ではない。あぁ、風景が歪んで見える。しかし、私は走らねばならぬ。何が何でもいかねばならぬ。一刻も早くあの人のもとへ辿り着かなければならぬ。人を抜き、垣根を潜り抜けた。ゴールは間近だ。そしてついに平屋建てのボロアパートの一室に飛び込み、私はこう叫んだ。
「先生!柏水堂のプードルケーキ、買ってまいりましたぁっ」
そこには、長身の青年が私の帰りを待っていた。イギリス紳士張りの恵まれたスタイルで白シャツに三つ揃えのベストを着た姿は、この暑さの中さえ涼しげだ。並みの大和男子がやったら、きざっぽくてチャラいだけになってしまう先のとがった革靴もよく似合っている。整った顔立ちと切れ長の目、知的な眉。街を歩いていたら、普通の女子は必ず振り返るだろう。
「4分30秒か。前回より60秒縮まったね」
私が先生と呼んだ男は、はさらり言い放った。
私の名前は堂本ひばり。K文庫の文芸部で働いている。先生は久堂冬彦。私が担当している作家だ。私と先生の関係を端的に述べるならば、絶対的な主従関係だ。もちろん、主が先生で従が私である。
プードルケーキは、先生の大好物だ。神保町にある創業昭和4年の老舗洋菓子店、柏水堂の看板商品である。先生はしばし担当に「プードル食べたい」といってこのケーキをねだる。だが、問題なのは、「食べたい」といってから五分以内に買って戻ってこなければならないというルールがあることだ。それができなければ、原稿を渡してくれないのである。
靖国通り北側に位置するこの店と先生の家までの距離は、普通に歩いたら往復15分はかかる。路地裏、抜け道、庭先のネコ道、等々を駆使して全力疾走するとどうにか7分を切ることができる。残りの2分は気力でカバーだ。先生によるこの心臓破りの担当いびりを、編集部ではプードルダッシュと呼んでいる。
運動が苦手で小柄な私は、プードルダッシュに三週間もの時間を費やしてしまった。連日汗だくになってプードルを買いに来るもんだから、店主は、私の顔を見ると無言でケーキを二つ出してくれるようになった。けれども長きにわたる試練に光が見えた。今日ようやく5分を切ることができた。私は意気揚々とケーキボックスのフタを開けた。だが、そこで一瞬にして闇へと突き落とされた。片方のプードルの頭がもげている。
「失格」
あぁぁぁぁ!
絶望で顔面蒼白となった私を見て、先生の目は恍惚とうるんでいた。