追憶の花
薔薇を見ると、何とも言えない思いが沸き上がるようになったのは、いつからだったか。それが何か解っているはずなのに、おぼつかない心地になるのは、どうしてなのか。
悲しいのか、嬉しいのか。それすらもはっきりしない、ただ、居ても立ってもいられないような、落ち着かなさ。苦しい、と、その時イヴは、ただそれだけを理解していた。手にした、赤い薔薇を握り締めながら。
イヴの母親は、お洒落で綺麗なものが大好きだ。家の中は、すべて彼女の趣味で品良く調えられ、いろいろなものが飾りつけてある。
当然と言うべきか、その中には花もあった。楽しそうに手入れをする母の姿を見ていたある日、突然、イヴはその感覚を味わったのだ。
白い、母の趣味にしてはシンプルな花瓶に活けられた、大輪の花。華やかなものをことのほか好む母がその花を飾るのは、別段、珍しいことではなかったはずなのに、この時、少女は言葉では表現できないような衝撃を受けた。
母は、綺麗なものが好きだ。とても綺麗で華やかな花々は、大抵、家のどこかには飾られていて、今までなら、イヴもそれをただ「綺麗だ」としか思っていなかった。
白い百合も、紫の菫も、ピンクのガーベラも、黄色い向日葵も、赤い牡丹も、どんな花だって、特別に思ったことなんてなかったのだ。
それなのに、その時。
イヴの瞳の中に映ったのは、何よりも華やかで美しい、薔薇の花だった。白い花瓶にとても良く映える、真紅の大輪。美しい、という言葉をそのまま体現するかのような、堂々たる花の姿だった。
思わずその花を引き抜き、握り締めたことに意味なんてなかった。
ただ、そうしなければならない気がして、何本も活けられた中でひときわ瑞々しい一本を手の中に捕らえずにはいられなかった。きちんと刺を抜かれた切花は、ただイヴの手にひんやりとしただけだったのに、まるで何かが突き刺さるように、心の中に血溜まりが溢れてくるような痛みを感じた。
痛ければ良いのに。そう思っていることを自覚したのは、驚いた母の声によってだった。いつも大人しい娘が、物も言わずに花瓶から花を引き抜いたのだから、それは驚いたことだろう。そして更に驚くことに、花を握り締めたまま硬直しているように見えた少女は、そのまま、はらはらと涙を零しさえしたのだ。
母親と父親に何を訊かれても、イヴには答えることなど出来はしなかった。彼女自身、一体、何がなんなのか解ってなどいなかったのだから。
解るのは、ただ、赤い薔薇の花から目が離せないこと。赤い薔薇を手から放してはいけないような気がすること。そして、この赤い薔薇の花が、どうしようもなく「痛い」ということ。
それだけのことを、イヴは誰にも伝えなかった。誰に何を言えばいいのか、皆目見当がつかなかった。
──否、それは少しだけ違ったのかもしれない。
イヴの中には、言葉にならない声がひしめき合っていた。それを誰かに伝えたいことはわかっていた。それを誰かに伝えなくてはならないことなどわかりきっていた。
なのに、それを、「誰に」伝えればいいのか、それだけが解らなくて。
丁寧に刺を抜かれた、イヴを傷つけるはずもない赤い薔薇が、ひたすらに痛くて、苦しかった。
それが、イヴにわかる最初。10歳の誕生日を迎える、ほんの少し前の話だった。
きぃ、と静かな音を立てる木製扉を推して入るその店は、イヴのお気に入りだ。扉を開けた瞬間から、甘い匂いにふわりと包まれ、何ともやさしい気持ちになれる気がする。抑えた茶色を基調に調えられた店内には、そのくせ、地味などとは言わせないとばかりの色彩が溢れている。
まるで思うさま楽しげに書きなぐられたキャンパスのようだ、とイヴはいつも思う。そんな自分の連想が、少女には面白かった。
すでに馴染みになっている彼女は、店員には目礼するだけで、すぐにお目当ての一角へと足を運ぶ。店内でも最も華やか、と言えるその場所の主役は、花束の定番とも言える色とりどりの薔薇だ。
赤、白、黄、ピンクに紫。そこには茶色や橙と言ったいささか珍しい色も混ざっているし、何より、近年、人工的に造れるようになったという青い色の薔薇があるのが、イヴには嬉しく思えるのだ。
大輪の花びらめいて浮き立つ心の奥に、ちくりと刺にさされたような痛みが、今もある。今よりも子どもだった頃、最初に薔薇の花に感じたときと変わらぬ落ち着かなさが消えることは、なかった。
それでも、イヴは薔薇の花が「好き」だった。いつでも身につけていたいと思うくらい、薔薇に執着せずにはいられない。
今日も一輪、赤い薔薇を手にとって、その柔らかく甘い匂いを嗅ぐ。生花はきちんとしないとすぐに萎れてしまうから、いつもならこの花屋に寄るのは帰宅直前のことなのだが、今日は特別だった。今から行く場所に、どうしても、赤い薔薇に付き添って欲しいと思ったのだ。
「いつもありがとうね。今日はどうする? ずいぶん早い時間だけど、誰かにプレゼントなら、きれいにラッピングしましょうか」
常連の少女に気安く笑って提案してくれる店主に首を振り、イヴはただ、リボンを巻いてほしいとだけお願いした。花と同じ真っ赤な色の、幅広のリボンを。
ただ一輪だけの薔薇の首元にリボンを結び、満足げに笑って少女は店を出る。お気に入りの白いブラウスと赤い膝丈のスカートを揺らし、花のコサージュのついたサンダルを鳴らして街を歩き出した。
日増しに強くなってくる日差しに、日傘が欲しいな、とふと思う。強い光を遮るには黒い傘が良いのだろうけれど、イヴはあまり黒い色を好かない。となれば、やはり白い傘にすべきだろうか。
雨傘のように、赤い日傘があればいいのに、と思う。レースとフリルで大輪の薔薇のようにあしらった傘があれば、どれだけ嬉しいことだろう。
赤い色は、薔薇と同じく、イヴの好きなものだ。他の色にも目を惹かれることはあるのに、最後に選ぶのはいつも、赤い色ばかりだった。強い陽光の降り注ぐ陽気の中で、鮮やかな赤い色はとても目立つ。本来おとなしい性格のイヴは、あまり人目に立つことが好きではないが、それでもかまわない程度には、赤い色が好きなのだ。
薔薇が美しい時期を迎え、もうすぐ季節は夏になる。その前に髪を調えようか、と思い立ったのは、あるサロンを見つけたからだった。
イヴの住むのと同じ街ではあるけれど、普段の彼女の行動範囲からは少しばかり外れたところ。とても洒落ていて、大人の雰囲気の漂うその店は、本当ならイヴのような年頃の少女には、憧れと共に気後れを感じさせてしまうものなのだろうが、イヴはひと目見たときから、その店に入ることを心に決めていた。
休日の今日は、いよいよ行くと決めた日だ。1週間も前に、自分で予約の電話を入れたときには、緊張のあまり電話を落としてしまうところだった。
一緒にいてね、とイヴは赤い薔薇にささやく。不思議と、薔薇の花さえあれば、何でも出来るような気がしていた。
悲しいのか、嬉しいのか。それすらもはっきりしない、ただ、居ても立ってもいられないような、落ち着かなさ。苦しい、と、その時イヴは、ただそれだけを理解していた。手にした、赤い薔薇を握り締めながら。
イヴの母親は、お洒落で綺麗なものが大好きだ。家の中は、すべて彼女の趣味で品良く調えられ、いろいろなものが飾りつけてある。
当然と言うべきか、その中には花もあった。楽しそうに手入れをする母の姿を見ていたある日、突然、イヴはその感覚を味わったのだ。
白い、母の趣味にしてはシンプルな花瓶に活けられた、大輪の花。華やかなものをことのほか好む母がその花を飾るのは、別段、珍しいことではなかったはずなのに、この時、少女は言葉では表現できないような衝撃を受けた。
母は、綺麗なものが好きだ。とても綺麗で華やかな花々は、大抵、家のどこかには飾られていて、今までなら、イヴもそれをただ「綺麗だ」としか思っていなかった。
白い百合も、紫の菫も、ピンクのガーベラも、黄色い向日葵も、赤い牡丹も、どんな花だって、特別に思ったことなんてなかったのだ。
それなのに、その時。
イヴの瞳の中に映ったのは、何よりも華やかで美しい、薔薇の花だった。白い花瓶にとても良く映える、真紅の大輪。美しい、という言葉をそのまま体現するかのような、堂々たる花の姿だった。
思わずその花を引き抜き、握り締めたことに意味なんてなかった。
ただ、そうしなければならない気がして、何本も活けられた中でひときわ瑞々しい一本を手の中に捕らえずにはいられなかった。きちんと刺を抜かれた切花は、ただイヴの手にひんやりとしただけだったのに、まるで何かが突き刺さるように、心の中に血溜まりが溢れてくるような痛みを感じた。
痛ければ良いのに。そう思っていることを自覚したのは、驚いた母の声によってだった。いつも大人しい娘が、物も言わずに花瓶から花を引き抜いたのだから、それは驚いたことだろう。そして更に驚くことに、花を握り締めたまま硬直しているように見えた少女は、そのまま、はらはらと涙を零しさえしたのだ。
母親と父親に何を訊かれても、イヴには答えることなど出来はしなかった。彼女自身、一体、何がなんなのか解ってなどいなかったのだから。
解るのは、ただ、赤い薔薇の花から目が離せないこと。赤い薔薇を手から放してはいけないような気がすること。そして、この赤い薔薇の花が、どうしようもなく「痛い」ということ。
それだけのことを、イヴは誰にも伝えなかった。誰に何を言えばいいのか、皆目見当がつかなかった。
──否、それは少しだけ違ったのかもしれない。
イヴの中には、言葉にならない声がひしめき合っていた。それを誰かに伝えたいことはわかっていた。それを誰かに伝えなくてはならないことなどわかりきっていた。
なのに、それを、「誰に」伝えればいいのか、それだけが解らなくて。
丁寧に刺を抜かれた、イヴを傷つけるはずもない赤い薔薇が、ひたすらに痛くて、苦しかった。
それが、イヴにわかる最初。10歳の誕生日を迎える、ほんの少し前の話だった。
きぃ、と静かな音を立てる木製扉を推して入るその店は、イヴのお気に入りだ。扉を開けた瞬間から、甘い匂いにふわりと包まれ、何ともやさしい気持ちになれる気がする。抑えた茶色を基調に調えられた店内には、そのくせ、地味などとは言わせないとばかりの色彩が溢れている。
まるで思うさま楽しげに書きなぐられたキャンパスのようだ、とイヴはいつも思う。そんな自分の連想が、少女には面白かった。
すでに馴染みになっている彼女は、店員には目礼するだけで、すぐにお目当ての一角へと足を運ぶ。店内でも最も華やか、と言えるその場所の主役は、花束の定番とも言える色とりどりの薔薇だ。
赤、白、黄、ピンクに紫。そこには茶色や橙と言ったいささか珍しい色も混ざっているし、何より、近年、人工的に造れるようになったという青い色の薔薇があるのが、イヴには嬉しく思えるのだ。
大輪の花びらめいて浮き立つ心の奥に、ちくりと刺にさされたような痛みが、今もある。今よりも子どもだった頃、最初に薔薇の花に感じたときと変わらぬ落ち着かなさが消えることは、なかった。
それでも、イヴは薔薇の花が「好き」だった。いつでも身につけていたいと思うくらい、薔薇に執着せずにはいられない。
今日も一輪、赤い薔薇を手にとって、その柔らかく甘い匂いを嗅ぐ。生花はきちんとしないとすぐに萎れてしまうから、いつもならこの花屋に寄るのは帰宅直前のことなのだが、今日は特別だった。今から行く場所に、どうしても、赤い薔薇に付き添って欲しいと思ったのだ。
「いつもありがとうね。今日はどうする? ずいぶん早い時間だけど、誰かにプレゼントなら、きれいにラッピングしましょうか」
常連の少女に気安く笑って提案してくれる店主に首を振り、イヴはただ、リボンを巻いてほしいとだけお願いした。花と同じ真っ赤な色の、幅広のリボンを。
ただ一輪だけの薔薇の首元にリボンを結び、満足げに笑って少女は店を出る。お気に入りの白いブラウスと赤い膝丈のスカートを揺らし、花のコサージュのついたサンダルを鳴らして街を歩き出した。
日増しに強くなってくる日差しに、日傘が欲しいな、とふと思う。強い光を遮るには黒い傘が良いのだろうけれど、イヴはあまり黒い色を好かない。となれば、やはり白い傘にすべきだろうか。
雨傘のように、赤い日傘があればいいのに、と思う。レースとフリルで大輪の薔薇のようにあしらった傘があれば、どれだけ嬉しいことだろう。
赤い色は、薔薇と同じく、イヴの好きなものだ。他の色にも目を惹かれることはあるのに、最後に選ぶのはいつも、赤い色ばかりだった。強い陽光の降り注ぐ陽気の中で、鮮やかな赤い色はとても目立つ。本来おとなしい性格のイヴは、あまり人目に立つことが好きではないが、それでもかまわない程度には、赤い色が好きなのだ。
薔薇が美しい時期を迎え、もうすぐ季節は夏になる。その前に髪を調えようか、と思い立ったのは、あるサロンを見つけたからだった。
イヴの住むのと同じ街ではあるけれど、普段の彼女の行動範囲からは少しばかり外れたところ。とても洒落ていて、大人の雰囲気の漂うその店は、本当ならイヴのような年頃の少女には、憧れと共に気後れを感じさせてしまうものなのだろうが、イヴはひと目見たときから、その店に入ることを心に決めていた。
休日の今日は、いよいよ行くと決めた日だ。1週間も前に、自分で予約の電話を入れたときには、緊張のあまり電話を落としてしまうところだった。
一緒にいてね、とイヴは赤い薔薇にささやく。不思議と、薔薇の花さえあれば、何でも出来るような気がしていた。