憂鬱シャルテノイド 前編
「こ、の馬鹿がっ!」
あれ程慎重に進めと言ったのに、本体の姿を見つけた途端に忘れてしまうとは。内心舌打ちをしながらも、イザナギは陽介を引き上げるべく駆け出そうとする。だが、何かに足を掴まれ動けない。
「なっ…?」
驚いて足元へと視線を向ければ、赤い何かが水の中でゆらゆらと揺れている。蔦のように見えなくもないが、しっかりと足首を掴んで離さないそれは見間違えるはずもない。
よく見れば、それは一つだけではなかった。二つ、三つと水底からゆっくりと這い出してくる赤い掌が、足に絡みついていく。
『案ずる必要はない、別の空間に移しただけだよ』
それが何なのか理解すると同時に、覚えのある声が聞こえてきた。顔を上げれば、白い服を身に纏った濃灰色の髪の女性が水の上に佇んでいる。
普通なら足が水に浸かっているはずだというのに、彼女は水面の上に立っていた。あたかも、そこが地面だとでも言うかのように。
「…やはり、お前の仕業か」
『他に誰がいると思っていたんだ?』
くすくすと笑いながら、女性はゆっくりと此方に歩み寄ってくる。途中、横たわる風斗の傍らを通り過ぎた瞬間、その姿が跡形もなく消えてしまった。その様を一瞥し、イザナギは溜息をつく。
「幻で人を惑わすとは、いい趣味になったものだな」
『そう固いことを言うな。私とて退屈な時間が嫌いなんだ』
「だからと言って、退屈凌ぎにこういう質の悪いことをされても困るぞ」
『何、ちょっとした悪戯だよ。命を奪うようなことは、まずしないさ』
「……悪戯で済ませられることではないと思うがな」
呆れたように肩を竦め、イザナギは足に絡みついた腕を振り払う。ぶつり、と嫌な音が響いたがそんなことを気にしていられる場合じゃない。
「…まさかとは思うが、あいつを攫った上で俺をあそこに置いたのもお前か?」
『ご想像にお任せするよ。とは言っても、答えは一つしかないだろうが』
「…やれやれ。遊びはもういい、風斗は何処にいる? 何が何でも返してもらうぞ」
『さてね。此処にいないことだけは確かだよ』
鋭い視線にも女性は動じる様子はなく、柔らかな微笑を称えたままだ。まるで、この状況を楽しんでいるかのように。
遠い、遠い昔。この笑顔が何よりも大切だったはずなのに。どうしてだろう、今の彼女の表情は何かが欠落してしまっているように見えてしまうのは。
『折角の再会なんだ、もう少し楽しもうじゃないか』
そう口にするなり、風もないのに水面がゆらりと揺れた。それを合図とするかのように、イザナギの周囲に黒いシャドウがいくつも這い出してくる。同時に、さっき振り払ったばかりの赤い腕も再び足元に現れはじめている。
このままでは危険だと判断し、イザナギは水底を蹴りあげその場から距離を取った。追い縋ろうとするシャドウは抜き放った刀を一閃させ、真っ二つに切り捨てる。
『おやおや、相変わらず勇ましい』
「お前に言われるまでもないな」
『そっちも相変わらずのようだな。…どれ、では少し賭けをしようじゃないか』
「…何だと?」
何がどうなって賭けをしなければならないのか全く分からないのだが、女性はこっちの都合など全くお構いなしに頷いて話を続ける。
『制限時間は、先程沈んだ人の子が無事にもう一人の君を連れて戻ってくるまで。それまでに君が膝をつかずにいられたら、私は君の言うことを一つだけ聞いてあげよう。もし出来なかったら、その時は相応のことをさせてもらうとしようか』
「勝手に決めるな、と言いたいところだが……最初から拒否権などなさそうだな」
『呑み込みが早くて助かるよ。…さあ、始めよう』
ぱちん、と女性が指を鳴らすと同時にシャドウが動き始める。向かってくるものから順に切り捨てていけばいいのだろうが、油断していると足元の腕に動きを封じられてしまうから、適度な間合いを保ちつつ捕まらないように常に動き続けなければならないだろう。
正直、体力が何処まで持つのか分からないが、既に始まってしまっている以上途中で投げ出すことなど出来るはずがない。陽介と風斗が向こうの手の内にいるようなものだから、尚更だ。
どうにか、沈んでいった陽介が本体を探し出して戻ってくればいいのだが。どれくらいの時間がかかるのかは分からないが、何が何でも保たせなければ。三人一緒に戻れなければ、意味がない。
決意を固めると、イザナギは再び刀を構え直した。
作品名:憂鬱シャルテノイド 前編 作家名:るりにょ