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憂鬱シャルテノイド 後編

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 一方、陽介は沈み続ける体に焦燥感を募らせていた。
 普通なら浮力が働くなりして戻れそうなのに、まるで体に鉛でも入ってしまったかのように底へ底へと誘われて。どれだけもがいても遠くなっていく水面に、焦らずにいられる方がおかしい。
 まずい、このままでは溺死してしまう。どうにか水面まで戻らないと、息が。
「……?」
 息が、出来る。そんな馬鹿なと思いはするが、もう一度吸って吐いてみると難なく呼吸が出来た。
 水の中にいる感覚は変わらないはずなのに、もう何が何だか分からない。一体どうなってるんだよと叫びだしたかったが、無駄だと分かっていたのでやめておいた。
 とはいえ、このまま沈んでいくのは物凄くまずい気がする。結果的にイザナギとはぐれてしまっているし、この先に何があるのか全く分からない。うっかりなことになった時、一人で対処できる自信は正直なかった。
 どうにか戻れないかと試みるものの、悲しい程徒労に終わってしまう。もう水面もかなり遠ざかってしまったし、もはや絶望的と思った方がいいだろう。もうなるようになるしか、なさそうだ。
 溜息をひとつ、陽介は腹を括って沈む流れに身を任せることにした。何が起こるのか分からない時は、無駄に体力を使うのは得策ではないと今までの戦いの中で学んでいる。少しでも力を温存しておかなければ、いざという時に動けなくなってしまうのだから。
 そうして、もう水面が見えなくなりそうなくらいまで沈んだ時、ようやく底に足がつく。ふわふわと宙に浮かぶような感覚がどうにも落ち着かなかったので、助かったと言えば助かった。
 周囲を見回してみるが、さっきまでの白い霧に包まれていた空間とは打って変わって此処は真っ暗な闇に支配されている。先に、光は見えそうにない。
「ったく、何なんだよ一体…」
 一人呟いてみるものの、返事が返るはずもなく。どうしたものかと腕を組むが、そうそうすぐに解決策が浮かぶわけじゃない。
 出来ることならすぐにでも戻ってイザナギと合流したいが、状況からしてそれは難しい。かと言って、このままじっとしているのも無理な話だ。上に行く手段がない以上、進んでみるより他にない。…道がないので、どっちに行ったらいいのかも分からないが。
 まだ少しばかり水の抵抗を感じるが、大した障害にはならなさそうなので気にしないことにした。とりあえず、自分の勘に従って歩き出すことにする。方向がまるで分らないが、そこは言っても仕方がない。
 一歩、二歩、三歩、四歩。靴音すら響かない闇の中を、ゆっくりと進んでいく。
 音のない空間はどこまでも広く、見通しがつかない。一体、どこまで歩けば出口が見つかるのか。
「……仁科」
 早く助けてやりたいのに、慎重さを失った結果がこれだ。とんだ笑い種にしかならない。
 それでも、まだ狼狽せずにいられるのは今まで積んできた経験のお陰か。…とはいえ、自分で墓穴を掘っているようなものなのであまり意味がないような。
 全く、どうしてこうもうまく立ち回れないのだろう。やること成すこと全てが空回っているようにさえ思えて、不器用すぎる自分に腹が立つ。
「…これだから、お前に追い付けないのかな」
 生涯無二の相棒に追いつきたくていつも必死だというのに、どれだけ頑張っても追い付くのが難しい。むしろ、足掻くほどに距離が遠ざかっているように思えてしまうのは何故なのか。
 最初に会った時よりも、ずっと互いの距離は縮まっているはずなのに。時々、風斗が遠い存在に思えてしまうこともある。
 それが自分の鈍さ故なのか、それとも違う理由なのかは全く分からない。けれど、それでもあと少ししかない残りの時間を悔いのないように過ごしていきたいと思うのに。ああ、もう、どうしてこんなにも不安になるのだろう。
 色んな思考が頭の中にぐるぐると回って、収拾がつかない。後ろ向きなことばかりを考えていては、昔と何ら変わりないではないか。むしろ、今この状況でこうなってしまうのはあまり好ましくないというのに。
 振り払うように首を振った瞬間、ふと視界の隅に何かが映る。
 闇の向こうに小さく見えたのは、間違いなく人影だった。しかし、此方からは遠すぎて誰だかは確認できない。敵か味方かの判別がつかない以上、近づいてみるしかなさそうだ。どちらにしろ、こんな場所じゃ碌な逃げ場もないのだから。
 腹を括って、人影に歩み寄っていく。よく見ると、自分よりも幼い子供のようだ。此方に背中を向けているので、顔は分からない。
「……?」
 あの後姿、なんとなくどこかで見たことがあるような。あのくらいの背格好なら年齢的には中学生だろうが、その年頃の知り合いはいなかったはずだ。…というよりも、後輩の顔なんて碌に覚えていない。とんだ薄情者だ。
「…なあ」
 一種の賭けも兼ねて、背中に呼びかけてみる。けれど、相手は振り返らない。聞こえていないのだろうか。それとも、聞こえていて敢えて振り返らないのか。
 もう一度呼びかけるべきか迷った刹那、唐突に周囲の景色が一変した。
 暗い闇に支配されていた空間が一転して、学校の教室に変化する。一瞬通い慣れた今の高校かと思ったが、机やロッカーが微妙に違う。だとしたら、此処はどこなのだろう?
『仁科、お前今日はどうすんの?』
 後ろから聞こえてきた声に、耳を疑う。振り向くとそこには、学生服の男子が二人。どちらも知らない顔だ。
 いや、問題はそこじゃない。今、彼らが呼んだ名前は。
 慌てて視線を戻せば、背中を向けていたはずの人物はいつの間にか振り返っていて。見覚えのある姿に、陽介は驚愕せざるを得なかった。
 さっきの既視感は、間違いなんかじゃなかった。今自分の目の前にいるのは、間違いなく風斗だ。けれど、着ている制服がまるで違う。…まさかとは思うが、稲羽に来るよりも前に通っていた学校のだろうか。
『悪い、今日もこのまま帰らせてもらう』
『ふーん、引っ越しの準備も結構忙しいんだな。お前が転校するまであと一週間だろ? それまで何人の女子に告られるか楽しみだな』
『はは、それはないよ』
 からかう男子と、それに苦笑いを浮かべる風斗。それと、転校まであと半月。そこから判断すれば、自ずと答えは導き出せる。
 まさかとは思うが、これは風斗の心の中なのだろうか。けれど、それにしてはいつも探索しているダンジョンとは何かが違う。まるで、映写機で映し出された映像に自分が紛れ込んでいるかのようだ。リアリティが、全くない。
 そもそも、あのダンジョンは全てまだペルソナを持たない人物の心が作り出したものだ。最初からペルソナを召喚できた風斗はその例から考えれば除外されるし、今更心の中を映しだす理由も全く分からない。なのに、どうして。
『じゃーな』
『ああ、また明日』
 そんなことを考えている内に向こうは遣り取りが終わったのか、挨拶を交わして離れてゆく。
 そうして一人教室に残された風斗が、小さく溜息をついた。その姿に、奇妙な違和感を覚えるのは何故なのか。心なしか、表情も少し暗い気がする。
 こんな風斗は、今まで見たことがない。いや、もしかしたら気付かなかっただけで、自分の与り知らぬ場所でこんな顔をしていたことだってあったのかもしれない。