憂鬱シャルテノイド 後編
気づいた事実に打ちのめされるよりも早く、相手が此方を向いた。かち合った濃灰色の瞳は、底がまるで見えない。
知っている。この目は、十二月の最初に見た、あの時と同じ。
『風斗』
次に聞こえてきたのは、女性の声。けれど、声音からして同い年の子のものではない。
不思議に思うよりも早く、目の前の風景が再び一変した。今度は、割と殺風景な部屋へと変化する。内装はともかく、置いてあるものがなんとなく見たことがあるような、気が。
『何? 母さん』
『何ってあなた、もう出発は明日でしょう? こんな遅くまで起きてると、明日の電車に間に合わなくなっちゃうわよ』
そう言いながら、歩み寄ってきたのは妙齢の女性。風斗と同じ濃灰色の目と髪からして、彼の母親だとすぐに分かった。
そういえば、彼の両親の話は殆ど聞いたことがない。これまでずっと事件のことを最優先してやってきたから、あんまりお互いのプライベートについては話したことがなかったと思う。
…いや、自分に至っては事件の間に色んなことを知られすぎてしまっているも同然だから、風斗のことだけ知らないと言った方が正しいだろう。そう考えると、今更ながら何も知らないのだと痛感せざるを得ない。
『大丈夫だって。それに、ちゃんと目覚ましはセットしてあるから起きられないってことはないよ。寝過ごしたこともないし』
『確かに、その点はお母さんとしては凄く助かってるけど。…まあ、いいわ。とにかく、明日は気をつけてね。駅に着けば、遼太郎が迎えに来てくれる手筈になってるから』
『母さん達こそ、気をつけて』
『ええ、お父さんと一緒にこれでもかってくらい頑張ってくるわ。…あなたも、頑張ってらっしゃい。沢山友達が出来るといいわね』
それじゃ、おやすみなさい。そう言い残して、風斗の母は部屋を出て行った。そうしてまた一人きりになった風斗は自分の存在など気付くはずもなく、すぐそこにあったソファに腰掛け溜息をつく。
『………たとえ友達ができたって、転校してばかりだったらすぐに忘れられるさ』
ぽつりと呟いた自嘲の言葉に、陽介は衝撃を受けた。
確かに、自分も此処に越してくるまで親しくしていた友人達とは随分疎遠になっている。元々親友と呼べる程仲が良いわけでもなかったし、刹那的な楽しさを共有する為だけに集まっていたようなものだ。
もう特捜隊の仲間達以外は迷惑メールしか届かなくなった携帯が、何よりもその希薄さを表している。我ながら薄情な友達を持ったものだと思ったこともあったが、自分もそうだったのだから仕方がないと納得できた。
けれど、風斗の場合は事情が違う。多分、今の言動から考えてもう何度も転校を繰り返していたのだろう。その度に折角出来た友人とも別れ、強制的に離れる羽目になってしまう。
手紙を書く、メールを送る、電話をかける。別れ際によくあるやりとりだが、それが後々実行される確率はあまりにも低い。自分だって、ただの社交辞令としか受取っていなかったのだから。それが幾度となく続けば、こういう考えになってもおかしくはない。
…だとしたら、自分は?
四月になれば、風斗は此処を離れ両親の許へ戻ってしまう。そうしたら、また忘れられてしまうと思っているのだろうか。そんなはず、ないのに。
脳裏に甦るのは、さっき思い出したばかりの台詞。
ただ、通り過ぎてゆくだけの存在。それが、今呟いた言葉にすべて集約されているのだとすれば全ての符号が一致する。イザナギの言っていたことも考えれば、余計に。
「……仁科」
漸く、理解した。
通り過ぎていくから、じゃない。いなくなって、忘れられてしまうのが怖かったのだ。そんな臆病な自分を守る為に、そういう風に言うしかなかった。頭の中では分かっていても、はっきりとした答えを得てしまえば動けなくなってしまうから。
同時に、好きだと言っておきながら風斗のことを殆ど理解しきれていなかった自分にどうしようもなく腹が立つ。特別だと言っておきながら、自分は全然何も分かってなんかいなかったのだ。
それでも。
「仁科」
確かめるように名前を呼んで、そっと手を伸ばす。触れた腕はすり抜けてしまうことはなく、確かな感触を掌に伝えてくれた。
弾かれたように此方を向く風斗と、目が合う。突然現れたであろう自分…少なくとも、彼にとってはそうだ…を驚愕も露に見つめてくるのに思わず苦笑せざるを得ない。
「…誰だ」
「ん、将来お前の相棒になる奴だよ」
「…相棒?」
鸚鵡返しに紡がれた声には、少しばかり疑いが混じっている。…まぁ、さっきの呟きから考えればこの反応は当然なのだが。
これまで見てきたものから考えて、此処にいる風斗は本物だと思って間違いない。きっと、映し出されている光景が光景だから、もしかしたらこの瞬間までの記憶しかないのかもしれない。あるいは、風斗を攫った犯人に記憶を封じられているか。多分、どちらかだ。
だったら、尚更此処から連れ出してやらなければ。このまま悲しい記憶の中に彼を置いておけるはずがない。たとえ自分のことを思い出してもらえないとしても、もう一人じゃないんだと伝えてやりたいから。
「とりあえず、行こう」
「行くって、何処へ」
「何処でもいいから、此処の外。でなきゃ、戻れない」
「ちょっと待て、戻るって何の話だ?」
「いいから」
困惑を隠せない相手を引っ張り、立ち上がらせる。
説明している時間はなさそうなので、風斗には悪いが何も言わずに進むしかなさそうだ。無事にイザナギと合流できたら、全部話すことにしよう。どこまで理解してくれるかは、分からないが。
「事情は後で話す、だから今は何も言わずに一緒に来てくれ。…でないと、まずい」
それに、なんとなく嫌な予感がする。自分の第六感は正直あてにならないことで有名なのだが、今回ばかりはあながちそうとも言い切れない。本能が、此処から出ろと言っている気がしてならないのだ。
「…分かった」
さすがに自分の表情から緊迫した空気を悟ったのか、風斗が頷く。拒絶さなかったことに一先ずほっとして、陽介は掴んだ腕を引いた。
「うっしゃ、そしたら走るぞ!」
そう言うなり、部屋のドアを開けて外へと飛び出す。思った通り、部屋の外にはまた闇が広がっていて先がまるで見えない。それでも、進んでいかなければ。立ち止まっていては、何も始まらない。
不安に半ば急かされるように走り続けていた矢先、不意に背筋がぞくりとした。視線だけで振り返ってみれば、自分達から少しだけ離れた辺りに何かが蠢いている。黒一色に塗りつぶされている空間では何も見えないはずなのに、確かに、そこに、いる。しかも、こっちに向かってきている気がした。
いつも渡り合っているシャドウだと、頭の中では分かっているはずなのに。どうして、こうも暗い闇の中だと恐怖が先に立ってしまうのか。粟立つ肌に気づかない振りをして、振り切るしか道はない。
だが、出口がまるで分からない以上何処へ逃げればいいのかも全く見当がつかない。闇雲に走れば無駄に体力を消耗してしまうし、そこをシャドウに襲われてしまえば一巻の終わりだ。…だとしたら、どうすれば?
「…向こうに、何かいる」
作品名:憂鬱シャルテノイド 後編 作家名:るりにょ