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ひび割れ

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 家の息苦しさに耐えかねて、街へ飛び出したというのに、心はもう家を思った。
 断罪的にひび割れが唇を蝕んでいく。商店街を吹く風は冷たく枯葉を踊らせ、秋の訪れと滲む血液の粒をもたらす。痛みは、特にこれぐらいの小さな痛みは意地が悪い。ひび割れに触れた指が赤い斑に色づいた、その変化を網膜が捉え、例えば黄班や視神経といった回路を通して事象を感知するまで、じっと死角で潜んでいる。目を見開き、きょろきょろと見渡す先に並ぶ色とりどりの西洋かぶれの街灯や牛なべや髪型や。恐怖、が感覚を支配しているようなどうしようもない感情を抑えきれず、少しでも多くの事象を見ておかねば、という義務感に苛まれる。生まれたての赤子と同じ速度で、刻一刻と変化するこの国はもうそれでなくても死角だらけで、自分を無知だと思い知らしめるに十分な有様だ。
 街のにおいに胸が詰まって、足はいつのまにか家へと向かう。精神が抗って遠回りをして、見知らぬ人通りの無い町並み。舌の先をちらりと出すと、味覚芽が反応する、甘味や塩味、苦味に寂しさ哀しさ、冷却の裏の熱運動、自ら流した体液にさえ、表したい感覚に対して言葉は絶対的に不足している。感情や感覚、以前の私はこんな風に世界を感じていたか? 違う。確信的に否といえる、ひび割れが生ずる以前は確かに存在する。唇に血の川を流し、思考に、言葉に不可能を厳然と突きつける断罪的なひび割れ。侵される、蝕まれる痛みが決して不快ではないことを私はもう知っている。
作品名:ひび割れ 作家名:m/枕木