ひび割れ
「キ、ク」
慣れない声が、私の名を不安げに呼ぶ。潤んだ青い瞳に私はひどく、ひどく感情を動かされているのは確かなのだけれど、この感情は何なのだ。輸入し切れていない感情という文化が、私の中で生まれて、混乱を生む。この人の、不安を和らげてあげたい。抱き締められる腕に、抱き締め返したい。もっと、もっと混じり合って、その感情はなんという? 伸ばした指が、彼の赤く染まった白い頬を撫でて、意外にも冷たいことに驚いて、もっと、私の知らないあなたを教えてほしい。キク、慣れない発音は耳に心地よく響いて、あなたの名前も呼んだならばあなたはどう思うのだろう。だけれどもごめんなさい、あの見知らぬ文字をどう読むのか、私は知らないのだ。そんな絶対的な溝を二人で埋めていく、そ の作業はきっと楽しいものだろう。私に言葉はもう無くて、だからもっと、と思うこの気持ちは表せないけれど、柔らかな猫毛が指を喜ばせ、そういう全てをいつかはあなたに伝えたい。まだ今はその時でなくて、なぜなら言葉が無くてもここには全てがあって、あなたがいて私がいる、言葉よりも、もっと、行為に溺れてしまおう。震える声でキク、と呼ぶその唇を塞ぐ、きっと答えはそこにあってそこにないのだけれど、いつか言葉で定義できたならそれは素敵なことだと思う。
甘さと、少しの塩味、寂しさと哀しさ、冷却の裏の熱運動、ひび割れは確かに存在した。しかし、もう、そんなことは、良いのだ。
(ひび割れ/朝菊/開国直後/日本にて/2009/11/10/枕木)