長門有希の消失以前
私はそっと、彼の横顔を遠くから見ていた。
彼は私のことに気づいているのだろうか。
私からは確認する術がない。
生徒数が多かったとしてもクラスはそこまで遠いというほどでもない。
きっと、彼は私をどこかで見かけたはずだった。
それも夏休みまでのほぼ四ヶ月、毎日学校へ通っていれば見かける機会もあるはずだった。
彼を見つけたふとしたきっかけで、
私のやろうとしていることがいかに無計画なものだったと知らしめられた。
ただでさえ目の前に、近くにいる彼が遠いような存在だというのに
私はどうやって彼と再開できるのだろう。
私には無理だとその時は強く感じた。
私は彼をヒーローとして捉えすぎていたのかもしれない。
私の中で彼の存在は日々、拡大していった。
彼は都合のいいように理想化され、虚像が大きく膨れ上がっていた。
きっと彼は私が思うような人間ではない。
彼という存在は私の中の妄想の産物だった。
とても耐えられないような事実だった。
私は彼とほとんど会話したことも、ましてや他人とコミュニケーションしているところすら見たことがない。
微かにその姿を確認しているだけだった。
それだけだと言うのになぜ彼を分かり切るようなことがあるのだろう?
私の心は揺れていた。
こんな臆病な私に彼はふさわしくないのではないか。
彼を思い出ごと消し去ったほうがいいのだろうか。
それとも、このまま彼に執着し続け、空想に思いを寄せるだけ寄せるべきなのか。
悩みがある以上、後ろめたい何かがあるのは確かだった。
しばらくの間、私は部室に通うことはなかった。
空想に浸って何もかも誤魔化すより、心を少し整理する必要があった。
これ以上、私は耐えることができなかった。
彼が何組にいるかはわかっていた。
彼のいる教室へ行こうとするたびに心臓が高鳴り心が張り裂けそうになった。
胸が痛み、喉が熱くなった。心が苦しい。
彼に近づこうとするだけでつらく感じた。
私は昇降口で彼を待った。
教師雨の前で待ち続けるのはとても恥ずかしく、
衆目に晒されることが私の気持ちを揺さぶった。
いつか彼が来るだろうと待ち伏せているほうが
気持ちをいくらか落ち着かせることができた。
やがて彼が階段の影から現れた。
林立する下駄箱から少しだけ顔を出して彼がやってくることを確認した。
神経が昂ぶり耳鳴りがする。
空想の中で何度もシミュレーションした結果を頭の中で再生させる。
このような形でしか彼とは再会できない。
私はどうかしているのだろうか。
ここまですることに意味があるのだろうか。
結果はわかり切っているはずだった。
こんなことでうまく行くはずがない。
引き返したかった。
手に持ったそれを大事に持って、一歩踏み出す。
とても出来ることではない。
「あ、あの」
図書館で出会った男の人の前に出た。
声がかすれ彼に聞こえたかどうかはわからない。
「あ」
彼は私のことを思い出してそう声を出したのか、
それともただ驚いて声を出したのか。
彼は何を考えているのだろう。
まるで耳が粘土を詰め込まれたようになっていた。
彼の顔を見ることができず、私はうつむいたままだった。
「あの、文芸部に、入部しませんか」
私は手に持っていたそれを差し出した。
文芸部の入部届だった。
胸が熔けてなくなってしまいそうだった。
目の前の感覚がなくなって私はほぼ呆然としていた。
私はやれるだけのことはやった。
彼はなんと返事してくれるのだろう。
その一秒一秒が億万年の長さに感じられた。