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おとしごろ

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スローモーションに見えた。
何が起きたのかは分からない。ただ巧の目に映ったのは、もつれ合って倒れていく海音寺と東谷だった。
豪も沢口も、あんぐりと口を開けたまま2人を見ている。巧は開きかけた口をゆっくりと閉じた。
東谷が下になって、廊下に倒れていく。
人間の脳って不思議だ。そのまま倒れたらけがをすると、とっさに考えられた。しかし次の瞬間には、東谷を引き寄せた海音寺が下になっていた。
かばったのだろうか。優しい人だな、なんてのん気な考えがよぎる。
仰向けになった海音寺の後頭部をかばうように東谷の手が廊下に着く。そのまま、自らの体重に負けてひじが曲がる。海音寺が目をつむるのが見えた、気がした。
人が倒れる、重い音がする。豪と沢口は2人のもとに駆け出した。
海音寺に覆いかぶさるように倒れている東谷の頭で、海音寺の顔が見えない。2人の距離が限りなく近い。いや、多分ゼロだ。
――嘘だろう。
しばらくは、誰もそのまま動かなかった。
先に動いたのは東谷だった。ひじを伸ばして自らの体をぐっと持ち上げる。海音寺は東谷が退いた後に見える天井を、しばらく見つめていた。そして、指を唇に持っていく。
東谷を振り返ると、廊下にしゃがみ込んでいた。同じように天井を見つめている。そのまま、指で唇をなぞった。
「海音寺さん・・・・すみません」
小さくつぶやいた東谷に、あぁ、と返事をする海音寺。しかしそれは返事というより、息がもれたような音だった。
静かな部室棟に、カラスの鳴き声が聞こえる。遊んでいた子供もとっくに帰っただろう。
「海音寺さん、あの」
何故か一番すまなそうにしているのは豪だった。海音寺に手を差出し、ぐっと体を引き上げる。海音寺は豪にうなずく。そして東谷を振り返った。東谷がぼっと赤くなる。
「すみません」
そう言ってうつむく。海音寺は、ええんじゃ、と言った。
「すまん、足、踏んだよな。頭ぶつけてないか」
そこで巧は、どうして2人が倒れたのか合点がいった。海音寺が東谷の足を踏んで転んだのだとしたら、どちらがキスの犠牲と言えるだろうか。
喜んでいるのは確実に東谷だろうな・・・・。
東谷はうつむいたまま動かない。海音寺も唇を触ったり頭をかいたりと、忙しない。
「海音寺さん」
沢口が先輩の名を呼んだ。くるりと振り返った海音寺に、真っ赤な顔を真っ直ぐ向ける。
「俺・・・・、俺、分かった気がします」
「・・・・うん?」
困り顔の海音寺と違い、沢口の表情は活き活きとしているようにも見える。巧は、沢口の言わんとすることが分かった。分かっただけに、言ってはいけないと思った。
「その・・・・キ、スの・・・・やり、方」
海音寺の表情がかたい。当たり前だ。
「そう・・・・そうか」
そしてわずかに微笑んだ。一番の被害者は、後輩の暴走を受け入れてくれただろうか。
いや、明日の朝起きたら、きっとショックで1時間くらい起き上がれないだろうな。

海音寺さん。ファーストキスが東谷じゃないこと、祈ってますよ。

巧は心の中で、海音寺に向かってつぶやいた。




海音寺が帰った後も、東谷はずっと天井を眺めていた。
豪が帰るぞと声をかける。わずかの沈黙のあと、東谷はぽつりとつぶやいた。
「俺・・・・初めてじゃった」
誰も何も言えなかった。巧はおめでとうと言おうと思ったが、空気の重さを感じやめておいた。
遠くでカラスが鳴く。
今日はカラスの声をよく聞くな。遠くで笑ってたりして。
暗くなりかけた空に、カラスの声は良く響く。
「帰るぞ」
巧の声もまた、響いて空に吸い込まれていった。
作品名:おとしごろ 作家名:原田凛