ゆびきり
言い終わったオレを、理事長はさも心外そうな表情で眺めていた。
「そんな風に見られていたなんてちょっと残念だわね。私、鏡子に対してはひどく甘い母親だと思うのだけど」
今度はオレが心外そうな顔をする番だった。今回の件や去年の女子バレー部員退学騒動、そもそもの三國との結婚話にしたって理事長の、というか犬神家の意思で鏡子をレールに乗せているんじゃないのか。
「雲海君、あなたと鏡子とサラ、一番弱いのは誰だと思う?」
突然の質問に今度はオレが面食らった。体が弱いのは間違いなく鏡子だが、使用人のこと言う立場ならオレやサラは鏡子よりはるかに下だ。弱い・強いという言葉だけではオレの解釈が理事長の解釈と同じかどうか図りかねる。
「言い方を変えましょう。自分の力を頼りにして生きていける可能性が一番高いのは誰かしら?」
「それは――」
その質問なら間違いなく答えは出る。
「オレです」
「そうね」
理事長は自分の紅茶を一口飲むと、カップをソーサーに置く音が聞こえないほど静かに置いてから続けた。
「あなたは膝さえ治れば全日本に選出されるでしょうし世界レベルで充分渡り合えるわ。あなたの実力だというのは事実だし、誰に縛られることもない。でも鏡子とサラは私たちが何も干渉しなくても共依存のように今いる位置から動こうとしない」
きつい目つきに一瞬もどかしさが混じり、理事長がわずかに顔を歪めた。
「私がミラをコックに迎えたのは高校時代の友情だとか、ましてや恩を売るなんてことではないの。純粋に彼女の料理がおいしくて、鏡子のアレルギーまで寛解するような献立まで一生懸命考えてくれたからよ。恩を感じるのはむしろ犬神家の方。ミラは正当な報酬と待遇を受けているにすぎないのよ。それをあの子たちはわかっていない。特に鏡子は甘いわ。去年の女子バレー部の件に関してもそう」
「それは……」
去年の鏡子にとって打撃だったチームメイト三人の退学処分。確かにあいつらは退学になるまで鏡子のことを特別待遇だなんだと嫌っていて、普段の練習のみならず公式戦でまでその態度を隠そうともしなかった。挙句ボイコット騒ぎの結果が退学だ。正直な話、去年の女子バレー部はチームとしての体を為していなかったと言える。
「結果を出そうともせずに恨み言を言っていたって何の解決にもなりはしないのよ。特待生として入学するからには結果を出すための意志を見せなければ駄目。それをあの三人は最後までわかろうとしなかった。鏡子もそう。自分の主張を通したいなら取るべき態度があるわ。ちゃちな盗聴器なんかしかけてくるより正々堂々と正面から来ればいいのよ、あなたのようにね。でも、あの子は今その手段を取る気がないみたい。それならそのようにこちらも振る舞うだけよ」
ぐ、と喉の奥が鳴ったような気がした。確実に今オレは理事長に気圧されている。理事長の言うことはあまりにも正論だから、反論すべき言葉が浮かばない。
「もし正面から鏡子が自分の意志を伝えたとして、理事長は聞き入れるおつもりが?」
「態度によるわね。ただ我を通すため、誰かになんとかしてもらおうなんて甘い考えならいつでも叩き潰すわ。貫き通すための行動が伴って初めて意志と言えるの。それが見えたなら受け入れる用意はあるわよ」
理事長の目は全く揺れない。自らも意志を持って、実現するための行動をしてきた人の目だ。
「だから、あなたの今回の申し出は勿論受け入れます。当然の事よ、あなたは私にちゃんと意志を示したのだもの。大石も、私に意志を示したわ。だから今回の鏡子の件については不問に付すことにします。その為の条件を大石はクリアしましたからね」
大石、オレらの知らない間にそんな博打かましてたのか。しかも理事長に対して。本当に今年の一年は油断のならないやつばかりだ。
「あいつ……やりゃあがったな」
独り言のつもりで呟いた言葉は理事長の耳にも入ったようで、理事長がふと表情を崩した。
「本当に、あなたってお父さんそっくりね。今の言い方、言葉のトーンから表情から本当にそっくり」
「よしてください」
理事長の言葉に苦虫を噛み潰すってのはこういう心持ちか、という気になる。大体、幼い頃の鏡子とオレとサラに、
『バレーでお父様を倒しなさい』
って言ったのは間違いなく理事長なんだ。オレが親父のこと苦手なんてのは百も承知のはず。
「でも、違うところがある。それはバレーをする上でも、アスリートとして生きていく上でもあなたの強みになってるのね」
理事長の微笑みがいつもとは少し違っていた。『黒曜谷に君臨する大魔女』のものではなく、強いて言うなら、うちの母親のそれとどこか似ていた。しかしそれはすぐに、いつもの大魔女の空気にかき消された。
「いいわ、あなたが膝を治すためにこの数年間専念するというのなら在学期間は黒曜谷が、卒業後は犬神家がサポートします。リハビリ医も練習施設も、腰を据えて最高のコンディションに持っていけるだけの所を紹介するわ。だから」
理事長の視線がオレを貫いた。
「選んだ道に有無を言わせないだけの結果を出しなさい。あなたのやり方でお父様を倒して、運命を変えてごらんなさい」
いつもならそこでただ了承の返事をして頭を垂れるだけだ。だけど今なら訊ける。唾を飲み込み、汗で濡れた手のひらを太ももにつけ、背筋をぐっと伸ばした。
「有無を言わせない結果を出したなら、仮にそれが理事長のご意志に外れたことであっても、オレの道を進ませてもらえますか」
理事長は一瞬目を見開いて怪訝そうにオレを眺めたけれど、やがて満足そうな笑みを作った。
「有無を言わせない結果、というのはそういうものよ。いい報告が来る日を待っているわ」
オレは黙って立ち上がり、理事長に一礼して理事長室を後にした。
家までの決して長くはない距離を、オレはいつもより時間をかけて歩いた。理事長に大きな口を叩いたからには覚悟を決めないといけない。
とにかく膝を治す。時間も根気も要るが乗り越えてみせる。実業団に入るのか海外留学するのかはその後の問題だ。
そして、鏡子にオレの正直な想いを伝えなくては。
今までずっと、立場や親やしがらみや、そういうものの存在に敵うわけがない、思いが叶うことはない、と思ってきた。鏡子が今まで仕掛けてきた駆け引きだって翻弄されるふりをしながらどこか内心ホッとしていた。
まだ鏡子と離れなくていい。まだ今までを壊さなくていい。そういう狡さの上に成り立った日常を、これまでオレは後生大事に離せずにいた。
物わかりのいいふりをして、如何にも心から喜んでいるかのような顔で三國の家に嫁ぐことになる鏡子を見送るなんて未来を、もうオレは選ばない。
つい数時間前の抱擁では伝えきれなかったオレの気持ちを、ちゃんとオレの口から鏡子に言おう。
決意と共に握りしめた拳からそっと力を緩めた。小指に巻きつく赤い糸ならぬ、白いテーピングを眺めて、幼い日の三人での指切りを思い出した。
『ずーっと一緒!』
子供の頃の他愛無い誓いは今日、何を差し置いてでも叶えたい願いへと姿を変えた。