なつあと
焼けつくような夏の暑さを、今でも鮮明に覚えている。
全身の水分が沸騰して噴き出したように際限なく汗が流れ落ち、呼吸をするたび熱を帯びた酸素が肺の中を燃やしてゆくようで、いっそ息を止めてしまいたいと何度も思った。
息を止めて、そうしたらこの時間もきっと止まる。
ゴールネットを潜り抜けるエンジ色のボールを見つめながら、確かにそう願っていた。
「っしゃあ!やったな黄瀬!」
びりびりと鳴り響く大歓声の中で意識だけが遠くにいた。それを、引き戻すかのようにぐっと首に腕を回され、衝撃に思わず咳き込んだ。
「げほっ、手加減して青峰っち!首痛いッスよ」
そう言いながら引き締まった胸板を肘で打ち付けると、青峰からも「痛って!」と苦悶の声が上がった。少し睨まれた後、すぐ全開の笑顔に戻った青峰にぐいっと肩を組まれる。
お互い顔も体も汗でベタベタで、身に着けたユニフォームもぐっしょりと濡れている。今すぐ水でもぶっかぶりたい、と思ったが、それでももう少しこの熱を感じていたかった。
「全中三連覇まで、あとすこしだな……」
前方を睨んだ青峰が不敵に笑った。鋭い目付きと同じように吊り上る口角が好きで、思わず見惚れる。暴君、オレサマ、そうばっかりでもない、やんちゃで楽しそうな笑顔。少年らしいというには少し野性的すぎるけれど、初めて見た時から不敵に笑うこの顔が好きだった、とても。
「最高……ッスね」
青峰の真似をして、前を向いた。視界に映るのは二階の観客席と勝利を謳った横断幕だけで、青峰が見ている景色と同じなのかは分からなかったけれど。疑うことはなかった。
首に巻き付く青峰の腕がじっとり熱い。馬鹿みたいに夏だ、と思った。
「なんかちょっと、似合わない日に生まれたんスね」
黄瀬がそう言うと、向かいで課題を広げていた青峰が訝しげに顔を上げた。
全中大会が終わり、残りの夏休みは学校での補習授業と課題の処理で埋め尽くされている。バカも2人で集まれば課題くらいはクリアできるだろうという赤司のありがたい助言に従い、黄瀬は補習の帰り道に青峰の部屋へ上がり込み、こうしてふたりで机を囲む羽目になっていた。
「あ?何がだよ」
「青峰っちの、たんじょうび」
はちがつさんじゅういちにち、とゆっくり口で模って黄瀬が言う。黄瀬は課題の上で手帳を広げていた。
男のくせに手帳なんて持つなよ女子か。と青峰には言われたが、平均的な中学生に比べて多忙な黄瀬にとって手帳はスケジュール把握のために外せない必需品だった。濃いブルーの表紙が付いた手帳はシンプルだけど使いやすくて気に入っている。雑誌の撮影、全中決勝戦、そして青峰の誕生日。広げた紙面にすべて書き込まれていた。
「夏生まれっていうのはピッタリだと思うんスけど、8月31日って。今日で夏休み最後っていう一番テンション下がる日じゃないッスか」
黄瀬の見解に一言、「うるせえよ」と青峰が返す。視線はまた進んでいる気配の無い課題に戻っていた。珍しく無駄な抵抗してんなあと、その骨張った指が細いシャープペンを握っているのをしげしげと眺める。
「宿題も終わってねーし」
「うるせーっつってんだろ。好きでその日に生まれたわけじゃねえよ」
「まあ、そりゃそうッスよね」
ふう、と静かな溜息をつく。
黄瀬は夏が好きだ。暑いけど、暑いのは嫌いだけど、それでも夏は好きだ。緑が輝いて、向日葵がぴんと伸びて、スイカは赤くて、海は青い。子供のための季節だと、誰かが言っていた。自分はまだ子供だから夏が好きなのだろうか。でも。
夏が遠ざかってゆく気配は、寂しくて苦手だ。8月もすでに後半へ差し掛かっていた。ぼんやり、窓の外に目をやる。
「オレきっと、最高潮に達するちょっと前、が好きなんスよね」
「何それ、エロい話か?」
「いや、夏の話ッスけど」
「あっそ。じゃ、興味ねーや」
一瞬顔を上げた青峰が、再び課題の上に頭を沈める。この男は…バスケとエロいことしか頭に無いのだろうか。そう思って、でも多分その通りなので追及するのはやめておいた。
「7月がいちばんイイな。これから夏が来るってカンジにわくわく出来るし。だから、8月入っちゃうとなんか寂しくて。夏休みも8月入ると急に早く過ぎてく気しないッスか?大会終わったらあとずっと補習ばっかで全然休みじゃねーし」
青峰は何も答えない。もとより返事は期待していなかったので、黄瀬はそのまま続ける。クーラーの風音に相まって、セミの鳴き声が聞こえる。
「だから、あとすこしで夏が終わっちゃうそんな寂しい日に、青峰っちが生まれたなんてオレ的には意外」
黄瀬は目を瞑った。黄瀬にとっての青峰は、寂しさとは対極にあるものだ。くすぶっていた毎日に彩りと輝きを与えてくれたのは青峰だ。
大好きな夏に似ている、と思った。理由もわからずただ胸だけが高鳴る感覚。青峰は夏そのものだ。
しばらくして、ペンを走らせる音が聞こえなくなったので、黄瀬は目を開けた。ぼんやりする視界がこっちを見ている青峰を捕らえる。鋭い目付きで、ぎゅっと固く閉じた唇で。
青峰と見つめ合ったままの沈黙に耐えられなくなって、誤魔化すように口を開いた。
「………青峰っちはさ、高校どうするとか考えた?」
「………別に……まだだけど」
「ふーん。やっぱバスケやれるトコっすか?」
「………さあな」
そこだけは即答すると思っていたので驚いた。じりじりと、胸の片隅を焼かれているような痛みが走る。
「………お前は?」
「オレは、バスケやれるとこ、行くッスよ……」
「………ふーん」
「そしたら受験勉強やらなくていいし」
「バーカ、真面目に考えろよ」
茶化して笑ったら、青峰にテキストで殴られた。アンタに言われたくない、と思っても口には出さなかった。
何かがゆっくりと変わっていくのを確かに感じていた。何なのかはっきり分からないけれど、それは予感のように黄瀬の全身にじわじわ広がり、今までと同じではいられなくなると、そう告げているようだった。
あんなにも強く、願ったのに。時間はどうしても流れてゆく。目の前の青峰は今、何を見ているのだろう。つい数週間前、自分の肩を抱いて汗まみれで笑っていた青峰とは違う場所に向かっているのだろうか。
「……ね、青峰っち。誕生日、ほしいもんあるッスか?」
頬杖をついて聞くと、青峰はゆっくり顔を上げ、不機嫌そうに手元の課題を指した。
「じゃ、これやれ」
「や、宿題ってのは自分でやるもんッスから………」
「るせーな、やれっつったらやれよ!進まねーんだよ!」
理不尽なキレ方をする青峰に呆れたが、脳みそレベルは黄瀬も青峰と大差無いのできっと力にはなれないだろう。
「………じゃあ、さ」
机にうつ伏せ、相変わらず進んだ気配の無い課題をうんざり眺める青峰の顔を下から覗き込む。夜のような深い青と目が合った。
「現実逃避、しないッスか?オレと」
青峰の瞳をじいっと見つめながら、夜の海はこんな色をしているのかな、とそんなことを考えた。
全身の水分が沸騰して噴き出したように際限なく汗が流れ落ち、呼吸をするたび熱を帯びた酸素が肺の中を燃やしてゆくようで、いっそ息を止めてしまいたいと何度も思った。
息を止めて、そうしたらこの時間もきっと止まる。
ゴールネットを潜り抜けるエンジ色のボールを見つめながら、確かにそう願っていた。
「っしゃあ!やったな黄瀬!」
びりびりと鳴り響く大歓声の中で意識だけが遠くにいた。それを、引き戻すかのようにぐっと首に腕を回され、衝撃に思わず咳き込んだ。
「げほっ、手加減して青峰っち!首痛いッスよ」
そう言いながら引き締まった胸板を肘で打ち付けると、青峰からも「痛って!」と苦悶の声が上がった。少し睨まれた後、すぐ全開の笑顔に戻った青峰にぐいっと肩を組まれる。
お互い顔も体も汗でベタベタで、身に着けたユニフォームもぐっしょりと濡れている。今すぐ水でもぶっかぶりたい、と思ったが、それでももう少しこの熱を感じていたかった。
「全中三連覇まで、あとすこしだな……」
前方を睨んだ青峰が不敵に笑った。鋭い目付きと同じように吊り上る口角が好きで、思わず見惚れる。暴君、オレサマ、そうばっかりでもない、やんちゃで楽しそうな笑顔。少年らしいというには少し野性的すぎるけれど、初めて見た時から不敵に笑うこの顔が好きだった、とても。
「最高……ッスね」
青峰の真似をして、前を向いた。視界に映るのは二階の観客席と勝利を謳った横断幕だけで、青峰が見ている景色と同じなのかは分からなかったけれど。疑うことはなかった。
首に巻き付く青峰の腕がじっとり熱い。馬鹿みたいに夏だ、と思った。
「なんかちょっと、似合わない日に生まれたんスね」
黄瀬がそう言うと、向かいで課題を広げていた青峰が訝しげに顔を上げた。
全中大会が終わり、残りの夏休みは学校での補習授業と課題の処理で埋め尽くされている。バカも2人で集まれば課題くらいはクリアできるだろうという赤司のありがたい助言に従い、黄瀬は補習の帰り道に青峰の部屋へ上がり込み、こうしてふたりで机を囲む羽目になっていた。
「あ?何がだよ」
「青峰っちの、たんじょうび」
はちがつさんじゅういちにち、とゆっくり口で模って黄瀬が言う。黄瀬は課題の上で手帳を広げていた。
男のくせに手帳なんて持つなよ女子か。と青峰には言われたが、平均的な中学生に比べて多忙な黄瀬にとって手帳はスケジュール把握のために外せない必需品だった。濃いブルーの表紙が付いた手帳はシンプルだけど使いやすくて気に入っている。雑誌の撮影、全中決勝戦、そして青峰の誕生日。広げた紙面にすべて書き込まれていた。
「夏生まれっていうのはピッタリだと思うんスけど、8月31日って。今日で夏休み最後っていう一番テンション下がる日じゃないッスか」
黄瀬の見解に一言、「うるせえよ」と青峰が返す。視線はまた進んでいる気配の無い課題に戻っていた。珍しく無駄な抵抗してんなあと、その骨張った指が細いシャープペンを握っているのをしげしげと眺める。
「宿題も終わってねーし」
「うるせーっつってんだろ。好きでその日に生まれたわけじゃねえよ」
「まあ、そりゃそうッスよね」
ふう、と静かな溜息をつく。
黄瀬は夏が好きだ。暑いけど、暑いのは嫌いだけど、それでも夏は好きだ。緑が輝いて、向日葵がぴんと伸びて、スイカは赤くて、海は青い。子供のための季節だと、誰かが言っていた。自分はまだ子供だから夏が好きなのだろうか。でも。
夏が遠ざかってゆく気配は、寂しくて苦手だ。8月もすでに後半へ差し掛かっていた。ぼんやり、窓の外に目をやる。
「オレきっと、最高潮に達するちょっと前、が好きなんスよね」
「何それ、エロい話か?」
「いや、夏の話ッスけど」
「あっそ。じゃ、興味ねーや」
一瞬顔を上げた青峰が、再び課題の上に頭を沈める。この男は…バスケとエロいことしか頭に無いのだろうか。そう思って、でも多分その通りなので追及するのはやめておいた。
「7月がいちばんイイな。これから夏が来るってカンジにわくわく出来るし。だから、8月入っちゃうとなんか寂しくて。夏休みも8月入ると急に早く過ぎてく気しないッスか?大会終わったらあとずっと補習ばっかで全然休みじゃねーし」
青峰は何も答えない。もとより返事は期待していなかったので、黄瀬はそのまま続ける。クーラーの風音に相まって、セミの鳴き声が聞こえる。
「だから、あとすこしで夏が終わっちゃうそんな寂しい日に、青峰っちが生まれたなんてオレ的には意外」
黄瀬は目を瞑った。黄瀬にとっての青峰は、寂しさとは対極にあるものだ。くすぶっていた毎日に彩りと輝きを与えてくれたのは青峰だ。
大好きな夏に似ている、と思った。理由もわからずただ胸だけが高鳴る感覚。青峰は夏そのものだ。
しばらくして、ペンを走らせる音が聞こえなくなったので、黄瀬は目を開けた。ぼんやりする視界がこっちを見ている青峰を捕らえる。鋭い目付きで、ぎゅっと固く閉じた唇で。
青峰と見つめ合ったままの沈黙に耐えられなくなって、誤魔化すように口を開いた。
「………青峰っちはさ、高校どうするとか考えた?」
「………別に……まだだけど」
「ふーん。やっぱバスケやれるトコっすか?」
「………さあな」
そこだけは即答すると思っていたので驚いた。じりじりと、胸の片隅を焼かれているような痛みが走る。
「………お前は?」
「オレは、バスケやれるとこ、行くッスよ……」
「………ふーん」
「そしたら受験勉強やらなくていいし」
「バーカ、真面目に考えろよ」
茶化して笑ったら、青峰にテキストで殴られた。アンタに言われたくない、と思っても口には出さなかった。
何かがゆっくりと変わっていくのを確かに感じていた。何なのかはっきり分からないけれど、それは予感のように黄瀬の全身にじわじわ広がり、今までと同じではいられなくなると、そう告げているようだった。
あんなにも強く、願ったのに。時間はどうしても流れてゆく。目の前の青峰は今、何を見ているのだろう。つい数週間前、自分の肩を抱いて汗まみれで笑っていた青峰とは違う場所に向かっているのだろうか。
「……ね、青峰っち。誕生日、ほしいもんあるッスか?」
頬杖をついて聞くと、青峰はゆっくり顔を上げ、不機嫌そうに手元の課題を指した。
「じゃ、これやれ」
「や、宿題ってのは自分でやるもんッスから………」
「るせーな、やれっつったらやれよ!進まねーんだよ!」
理不尽なキレ方をする青峰に呆れたが、脳みそレベルは黄瀬も青峰と大差無いのできっと力にはなれないだろう。
「………じゃあ、さ」
机にうつ伏せ、相変わらず進んだ気配の無い課題をうんざり眺める青峰の顔を下から覗き込む。夜のような深い青と目が合った。
「現実逃避、しないッスか?オレと」
青峰の瞳をじいっと見つめながら、夜の海はこんな色をしているのかな、とそんなことを考えた。