来ないの?
奇妙な違和感を覚えて、夏希は首を傾げる。そしてすぐ、その理由にすぐ思い至った。
聞かれていない。
ここへ来てから、初めて。
「……佳主馬は聞かないの?」
「なにを」
「健二くんのこと」
佳主馬は、夏に初めて知り合うことになった健二にずいぶんと懐いていた。それは佳主馬の母親である聖美が楽しそうに嬉しそうにしみじみと呟いていたくらいで、かなりめずらしいことだというのは夏希も知っている。
決して、情が薄い少年ではない。むしろ、佳主馬は誰よりも家族を大切にしている。無愛想だし口数も多くはないが、それは陣内家の者であれば全員知っていることだ。
その佳主馬が、健二にはわかりやすく懐いていた。
あの鈍感な健二が、可愛い弟ができたみたいだと幸せそうに笑っていたくらいだ。誤解するほうが難しい。
だから、おそらくはいちばんに聞かれると思っていたのに。
「知ってる。バイトが終わらなくて、来れないって言ってた」
返ってきた答えは、予想外のものだった。
「……おじさんたちに聞いた?」
「メールが来た。健二さんから」
「…………」
その時。
夏希の胸の痛みが、ずきりと大きくなる。
誰も、健二が来られなくなったことは知らなかったのに。
夏希が教えるまで、知らなかったというのに。
佳主馬が知っていたのは、なぜか。答えは、佳主馬本人が言っていた。健二が、メールで教えたからだ。
健二と佳主馬は、仲が良い。それは、夏希もよく知っている。
でも、それはあくまでも夏希が間に入っての仲、ずっとそう思い込んでいた。
佳主馬だって、携帯電話は持っている。それに、OZだって使える。佳主馬のアバターであるキング・カズマはOZでの有名人だし、健二だってOZの保守点検をバイトにするくらいにはOZに近しい。
よく考えたら、夏希を介する必要なんてどこにもないのだ。
──そして、やっと気づく。
先ほどから感じていた、小さな胸の痛み。こんなに人が大勢いるこの陣内本家で、感じるはずのない感情。
さみしい。
会いたい。
なぜ、あの人が隣にいないのか。
どうして、健二はここにいないのか。
「…………っ」
気がついたら、携帯電話を取り出していた。
アドレス帳を開くまでもない。履歴から、すぐに出てくる電話番号。
健二の、電話番号。
ためらうことなく、発信ボタンを押す。
まだ陽は高いから、きっとバイト中だろう。冬休みの久遠寺高校物理部室で、佐久間と一緒にPCに向かっているに違いない。
でも、遠慮する気なんてなかった。
だって。
どうしても、会いたかったから。
『夏希先輩、どうしたんですか? 今日から上田に行ってたんじゃ……?』
携帯電話の向こうから聞こえて来る声は、記憶にある声と寸分たりとも変わってはいなかった。
当たり前だ。
昨日、同じ声を聞いたばかりなのだから。
「あのね」
深く、息を吸う。心を、落ち着ける。
わがままを言うのに、こんなに度胸と勇気が必要になる日が来るなんて、思ったことなどない。
「みんながみんな、私の顔を見るなり言うの。健二くんは? 来ないの? って」
『す、すすすすみません。先輩に迷惑かけることになっちゃって……』
「だから、今すぐ来て。責任取って」
『は? は……はいいいい!?』
言われた意味がわからない。そうとでも言いたげな、素っ頓狂な叫び声が耳へと飛び込んでくる。
健二の慌てた声も、好きだ。
「みんなに言われたら、めちゃくちゃ会いたくなっちゃった。だから、責任取って。今すぐ、会いに来て」
でも、それ以上に、その慌てて目を白黒させている顔が見たい。
「会いたいの、すぐに。だから……だか、ら」
『せ……先輩』
回線越しに聞こえてくる声は、今度は戸惑っているような色を帯びた。
どうしていいかわからない。そんな健二の気持ちを、雄弁に伝えてくる。
それもそうだろう。夏希にだってわからない。
なぜ、目から涙がこぼれているのか。声が、震えてしまったのか。
健二のことだから、きっと自分を責めるだろう。夏希を泣かせてしまった、と。
だけど、これは健二のせいではない。あくまでも、夏希自身の都合。
でも、会いたくて。
大きくふくれあがってしまったその気持ちは、本物で。
まるで壊れしまったかのように、同じ言葉しか頭に浮かんでこない。口から、出て行かない。
このままでは、健二が困ってしまう。
──そんな夏希を、救ったのは。
「貸して」
ずっと無言でその場に立っていた、佳主馬だった。
通話中の携帯電話を夏希から取り上げると、耳に当てる。そして、まるでなんでもないことのように言葉を続けた。
「駅まで迎えに行くから」
『そっ、その声、佳主馬くん!?』
「他に誰がいるの」
「そ、そりゃそうだけど、っていうか、せ、先輩大丈夫? 平気!?』
「平気。……バイトって、OZの保守点検でしょ」
『そ、そうだけど……よくわかったね』
「健二さん、自分で教えてくれたくせに」
『あ、あれ? そうだったっけ』
「OZの保守点検なら、ここでもできるし。来なよ。みんな、待ってる」
『で、でも、佳主馬くんのパソコンずっと占領するわけにも』
「そんなの、べつにいい。……だから。帰ってきなよ、健二さん。僕も……夏希姉も、待ってるから」
佳主馬が口にする言葉は、淡々としている。
ともすれば冷たく聞こえがちなのにそう聞こえないのは、佳主馬の心がそこに込められているからなのかもしれない。
『……うん、ありがとう。行くよ、これからすぐ』
そして。
夏希と佳主馬の心は、健二の心を揺り動かすことに成功したようだった。
「わかった、待ってる。新幹線乗ったら、教えて」
『うん』
佳主馬に取られた携帯からかすかに漏れてくるのは、紛れもなく健二が口にした言葉。
すぐに、行くと。
そう、言っていた。
「ん」
目の前に携帯を突き出されて、夏希は我に返る。
ひったくるように携帯電話を佳主馬の手から取り返すと、急いで耳に当てた。
一言も、聞き漏らさないように。
大好きな人の言葉を。
「健二くん」
『あの、先輩、これから行きますから』
「うん」
『待っててくださいね』
「……うん!」
──そして、電話は切れた。
携帯を握りしめたまま、つい呆然としてしまう。
衝動でかけた電話、だったけれど。
本当に、願いを叶えてくれるなんて。
「……というわけだけど。駅、行く?」
そんな夏希を見上げながら。
ほんのわずか口の端を上げて、佳主馬がにやりと笑っている。
「行くに決まってるじゃない」
結局、最後は佳主馬の力を借りなければならなかったなんて、悔しい。
それでも、嬉しかった。健二が、ここへ来る。
夏希のわがままを聞いて、ここへ今すぐ来てくれる。
それだけで、こんなに嬉しい。自然と、笑顔になった。
ここで、一緒に年を越すことができるのだ。
「……ありがと、佳主馬」
「べつに。夏希姉ぇのためじゃないし」
それが照れ隠しでもなんでもなく、正真正銘佳主馬の本音だったことを夏希が知るのは。