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君に触れるだけで

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剣心は狭い路地を走っていた。後ろから剣心を追ってくる幾つもの足音が聞こえる。剣心はどこかに身を隠す場所がないかと探すのだが、その路地の周囲は真っ暗でただ前方へ無限に道が続いていた。走っても走っても足音は追ってくる。もう何時間も走っている気がする。どこまでこの路地は続くのだろう。そう思った瞬間、頭上から水が落ちてきた。剣心はずぶ濡れになり、思わず立ち止まる。水?いや、この生あたたかさ、このぬめり・・・これは・・血だ!!剣心の全身は真っ赤な血に濡れていた。思わず後ずさる。そこへ後ろから刀がふり降りてきた。「人斬り抜刀斎!」叫び声とともに、剣心の頭に刀が落ちてくるのが見えるが動けない。動けない!
「うわああっ!!」
剣心は叫び声をあげて、ふとんの上に起き上がった。
「ゆ・・夢か・・・」
思わず手を見る。血などついていない。
「はあ・・・」
京都で人斬りと呼ばれ、血に汚れていた自分。京特有の細い路地を幾度も走りまわった。時には敵を追って。時には敵に追われて。あの頃の暗い影がまだ自分はひきずっている。いや、一生ひきずるのではないか。自分を追っていたあの足音は、自分の犯した罪そのもの。自分の犯した罪が消えるはずなどないのだ・・・。剣心は思わず頭を抱えた。その時、自分を呼ぶ声が聞こえた。
「剣心。剣心、大丈夫?」
薫が障子ごしに声をかけてくる。
「薫・・どの・・」
「何か叫んでたでしょう?大丈夫?」
「ああ・・・夢を見ていただけでござるよ。すまん、起こしてしまったでござるな」
剣心はふとんから抜け出て、障子を開けた。廊下に薫が心配そうに立っていた。
「なんだかとても苦しそうだった・・・剣心、大丈夫?」
「ああ。ただの夢でござる。すまん、すまん」
「大丈夫ならいいけど・・・」
薫はその白い手を剣心の頬にあてた。
「汗、かいてたんだね。そんなに嫌な夢だったの?」
「ああ・・・昔の・・・。でも、大丈夫でござるよ。薫殿を起こしてしまってすまんでござる」剣心はそっと薫の手の上に自分の手を重ねた。
剣心と薫は祝言をあと七日後に控えていた。一つ屋根の下に住んでいるとはいえ、祝言までは二人は別々の部屋で休んでいた。といっても部屋は隣同士だから、剣心の叫び声が薫にも聞こえたのであろう。
頬にあてられた薫の手はあたたかかった。剣心は悪夢でざわついていた心が静かになっていくのを感じていた。
(君に触れるだけで・・・。俺の心は洗われるようだ)
まだ心配そうに剣心をみている薫の顔には、剣心への気遣いが前面に現れていて、少し眉を寄せたその表情は剣心への思いであふれていた。そして、美しかった。月明かりに照らされて、青白くまたたく瞳。濡れた唇。背中に流れた黒髪。昼間見るおきゃんな薫とは違い、夜の薫は艶やかささえ感じさせた。
「剣心。がまんしないでね?もし私に話して楽になるようなことがあれば、話してね?私、どんなことでも・・・剣心の過去のどんなことでも、受けとめる自信あるよ。だって、私たち、もうすぐ夫婦になるんだもの。ずっと一生剣心と添い遂げるって決めたんだもの。私、剣心の力になりたいの」
「薫殿・・・」
(そんなやさしい言葉を、こんな俺に・・・。もったいないでござるよ。こんな男に・・)
剣心は心のうちでつぶやき、薫の顔をみつめた。
もうすぐ夫婦になる。薫と。このやさしく美しい薫と。こんな汚れた俺が。こんな暗い過去を持つ俺が、薫の手をとる。薫の・・・体を抱く。そんなことが、本当に許されるのだろうか。いくら薫自身がそれを望んでくれているとはいえ・・・。俺には本当はそんな資格はないのだ。幸せになる資格など。薫と共に生きるほどの幸せを手にする資格など・・・。
「剣心・・・」
「おろ?」
いつのまにか、薫がすこぶる不機嫌な顔になっている。頬も不満げにふくらんでいる。
「剣心、いま、なんか変なこと、考えていたでしょ?本当に祝言あげていいのか?とか。本当に自分でいいのか?とか。自分にそんな資格はないとか?」
「お、おろっ!?薫殿、読心術の心得でもあるのでござるか?」
「そんなものなくたって、わかりますっ!剣心の考えていることくらい。好きな・・・人のことだもの・・」
「薫殿・・・」
「もう、剣心。男でしょっ!男に二言はないでしょっ!私たち、ずっと一緒に生きていこうって約束したでしょ?男だったら、ぐちぐち考えたりしないっ!ばしっとして、ばしっと!」
「おろ~。薫殿、男らしいでござるな~」
「な!剣心ってば、私が男らしくてどうするのよ!剣心に男らしくしてほしいんだってば!」
「はいはい、薫殿にはかなわぬでござるな。なんか、尻にしかれそうな・・・」
「何ですって!?」
「い、いや、なんでもないでござる・・・」
しばらく剣心をにらんでいた薫だったが、やがてふっと微笑んだ。
「もし剣心が命を落としたら、剣心に会いたい思いだけで京都までやってきた女が確実に一人不幸になる・・・」
「え?」
「師匠の言葉!あの志々雄との闘いの前に奥義を習得する時、師匠が剣心にそう言ったって。剣心、話してくれたでしょう?」
「ああ。確かに」
「師匠は正しい。その言葉の裏を返せばね、剣心が元気で生きて笑っていてくれたら、一人の女が確実に幸せになる・・・」
「薫殿・・・」
「だから、剣心。笑って。苦しみや悩みがあるなら、私にもわけて。一緒に背負わせて。一緒に歩いていこう。これからいろいろあっても、きっと乗り越えられるよ、私たち。だって、これまで、二人でたくさんのこと乗り越えてきた。一緒に笑って、苦しんで、悩んで・・・」
薫は剣心の胸に顔を寄せた。
「私と剣心が一緒に過ごしてきたいままでの時間。大切な私たちの宝物でしょう?これからの二人の未来を信じられるくらい大切な・・・」
「薫…どの・・・」
剣心はのどに熱いものがこみあげてきて、薫を両腕で強く抱きしめた。薫の体がしなる。剣心はさらに強く抱きしめた。
「薫・・・すまない。君を好きになってすまない。君を・・・離せなくなってすまない・・。こんな俺ですまない・・・。でも、俺はもう、離せないんだ。君から離れられないんだ。君なしで生きていくことなんて…考えるだけで足がすくむんだ・・許してくれ、君と生きていきたいと望んだ俺を。君と生きたいと思ってしまった俺を・・・君を・・・自分のものにしてしまう俺を・・」
「剣心ったら・・・」
薫はふわりと微笑んで、剣心に唇をそっと重ねた。
「ゆ・る・す・で・ご・ざ・る・よ」
「薫・・・」
「あなたのものになりたい。剣心と生きていきたい。それは私の望みでもあること、忘れないで」
「薫・・・本当に・・いいのだな?」
「もう剣心!祝言の七日前に破談にするつもり!?」
「い、いや。そういう意味では・・・」
薫はきっと剣心の目をみつめた。
「剣心・・・私をいますぐあなたのものにして・・・」
「えっ・・・」
「祝言とか・・・関係ない。もう私はとっくに剣心のものだもの。祝言まで待ってたら、七日のうちに剣心、また変なこと考えちゃうかもしれないじゃない。今すぐ、剣心の妻にして・・・」
そういって薫は帯をほどき始めた。
「お、おろろ~!薫、な、なにを!?」

作品名:君に触れるだけで 作家名:なつの