誓い
「誓い」
深く昏い眠りの中で、まどろみ続ける海江田を、山中は黙ってじっと見つめていた。
眠り続ける人の呼吸を助けるために、規則正しく動き続ける機械の無機的な動作音以外は物音ひとつしない、外界と遮断された白い部屋。二人だけの世界。
「あなたは……どうして私を置いて、自分一人だけで行ってしまわれたのですか」
答えはない。
機械音だけが響いている。それに伴って静かに白い胸が上下する。
掛け布団の上に置かれた白蝋のような手をそっと取った。
ひんやりとしている。力はない。
こうして握って暖めてやれば、今に動き出すのではないかと、あらぬ期待に思わずじっと握りしめてみたが、もちろん何の反応もなかった。
山中は細く溜息をつき、また口を開いた。
「私はあなたに謝らなくてはならないのに、聞いては頂けないのですか……」
安らかな寝顔には何の変化も見られない。
「私はやまとを沈めてしまったのです。あなたにお預かりした大切な艦を」
白い頬がかすかに動いて、ほんの少し笑ったように見えたのはきっと気のせいだろう。
全き沈黙の声が響く。
『山中、きみは良くやった』
誰の耳にも聞こえない声。
『きみは私の大切な国民をひとりも失うことはなかった。きみは現在の状況でできる限り力を尽くした……だから、何も自分を卑下することはない』
ああ……なんて自分に都合の良い幻聴なのだろうか。
山中は自らへの嘲笑に唇を歪めた。
いっそ目を覚まして、この場で自分を罵倒してくれればどれほど気が楽になるだろうか。
──馬鹿者!何をやっていたんだ、この役立たずが!私の下で何年勤めてきた?!何を見てきたんだ!お前なんかに期待した私が馬鹿だった!
そんな風に、罵ってでもくれれば……。
だがもうこの人が目を覚ますことはないのだ。
あの声が私の名を呼ぶことはなく、あの形の良い唇が微笑みをたたえることはなく、あの目が私を見ることはもう永久にない。
永久にだ……
山中は握っていた海江田の手をそっとベッドの上に降ろした。
さっきまでこの手で包み込んでいた拳が、今は力なくゆっくりと開かれていく様をじっと見守る。
「奥様は冷たい方ですね……一度も見舞いにも来ないなんて」
わざとそう言ってみる。
「愛していらっしゃるんでしょう、今でも」
『ああ、もちろんだとも』
沈黙の声が答える。
『あれは決して冷たい女などではないよ。ただ……私のことは全て分かってくれている』
分かっています、そんなことは。わざわざ言わなくてもよく知っています。あなたと奥様は今でも愛し合っていらっしゃるのでしょう。
遠く離れていても心は通い合っているのでしょう。
「私はこんなにあなたの側にいるのに。こんなに長くあなたと時を共にしてきたのに」
私は……
『山中……きみには感謝している。これまで私の副長としてよく勤めてくれた。私は誰よりもきみを信頼している』
あなたはきっとそう言うのでしょう。
そう、私は誰にも代えることはできない、あなたの唯一無二の副長だ。
それは山中の長年の自負だった。
だから十年の長きに渡って、この人の元に仕えることができたのだ。優秀で聞こえる、あのたつなみの副長速水だって、自分にとって変わることなど出来まい。
……だが、と山中は思う。
自分はそれ以上でも、それ以下でもないのだ……
海にいる時は、私は指揮官の孤独を支えることができる、あの人のただ一人のかけがえのないパートナーだ。
だがひとたび陸に上がれば、あなたはそんなことなどあっさり忘れて遠くに行ってしまう。
あなたを待っている暖かい家庭へ帰り、愛する家族に囲まれれば、私のことなどきれいに忘れてしまうだろう。
深い海の中にいる時だけ、あなたは私だけのものだった。そこでは決してあなたを他の誰にも触れさせることなどない。
……もうそんな夢のような時は終わった。
この人が生きて目覚めることはないのだ、永久に。
「どうしたっていうんです?みんな待っていますよ、あなたを。
あなたの夢はまだ途中じゃないですか。あなたにここまでついて来た者を見捨てるのですか?」
海江田の白い頬と色を失った唇が、またかすかに動いたような気がした。
「……ええ、分かっていますとも」
そんなことは言いがかりだ。
艦長はあらかじめこの日のあるを予測して、こう言い遺したではないか。聞いたのは他でもない自分だ。
あの人はこう言った。
『もしも私が死んだ時は、生きて残った者が自らの意思で考え、結論を出すのだ。
……死んだ者のために戦ってはならない』と。
沈黙の声がまたささやく。
『そうだ……山中。死んだ者の後を追ってはならない。お前はまだ生きているじゃないか。世界は生きた人間のものだ』
「違う!そんな、違う!だってあなたは死んでなどいない! そんなに気持ちよさそうに眠っているのに──!」
山中は声を詰まらせた。
「なぜ……目を覚まさないのです?もう休息は充分でしょう?いつまで寝ているつもりですか?いつまで私に待てというんですか──」
答えはない。
……あの時、なぜ、言わなかったのだろう。ただ一言でいい。
あなたが好きだと。
「私は臆病者でした、艦長。私はあなたに嫌われるのが怖かった。あなたに疎まれるのが何よりも恐ろしかったんです。あなたの側にいられなくなるのが何よりも……」
山中は歯を喰いしばり、怒涛のように自らを襲う後悔の念をじっと受け止めた。
きっと汚らわしい物を見るような目で見られ、艦からは遠ざけられ、この人の元に仕えることなど二度と出来なくなってしまうだろう。
そんなことになる位なら、黙って全てをこの胸一つにしまい、退官するその日まで、ただこの人の副官として生きていければと。
一度も口に出すことなく、墓まで持っていくつもりだったのに……それは邪な願いだったというのか。
山中はふっと口元をゆるめた。
「ああ……もしかすると、こんなことを言っても、あなたは笑って受け流してくれたかもしれませんね。
『何の冗談だ?きみらしくもないぞ、山中』
と、何事もなかったかのように聞き流してくれたかもしれませんね……」
今となってはもうすべてが遅すぎた。
私の言葉はもう永久にあなたには届かない。
深く昏い眠りの中で、まどろみ続ける海江田を、山中は黙ってじっと見つめていた。
眠り続ける人の呼吸を助けるために、規則正しく動き続ける機械の無機的な動作音以外は物音ひとつしない、外界と遮断された白い部屋。二人だけの世界。
「あなたは……どうして私を置いて、自分一人だけで行ってしまわれたのですか」
答えはない。
機械音だけが響いている。それに伴って静かに白い胸が上下する。
掛け布団の上に置かれた白蝋のような手をそっと取った。
ひんやりとしている。力はない。
こうして握って暖めてやれば、今に動き出すのではないかと、あらぬ期待に思わずじっと握りしめてみたが、もちろん何の反応もなかった。
山中は細く溜息をつき、また口を開いた。
「私はあなたに謝らなくてはならないのに、聞いては頂けないのですか……」
安らかな寝顔には何の変化も見られない。
「私はやまとを沈めてしまったのです。あなたにお預かりした大切な艦を」
白い頬がかすかに動いて、ほんの少し笑ったように見えたのはきっと気のせいだろう。
全き沈黙の声が響く。
『山中、きみは良くやった』
誰の耳にも聞こえない声。
『きみは私の大切な国民をひとりも失うことはなかった。きみは現在の状況でできる限り力を尽くした……だから、何も自分を卑下することはない』
ああ……なんて自分に都合の良い幻聴なのだろうか。
山中は自らへの嘲笑に唇を歪めた。
いっそ目を覚まして、この場で自分を罵倒してくれればどれほど気が楽になるだろうか。
──馬鹿者!何をやっていたんだ、この役立たずが!私の下で何年勤めてきた?!何を見てきたんだ!お前なんかに期待した私が馬鹿だった!
そんな風に、罵ってでもくれれば……。
だがもうこの人が目を覚ますことはないのだ。
あの声が私の名を呼ぶことはなく、あの形の良い唇が微笑みをたたえることはなく、あの目が私を見ることはもう永久にない。
永久にだ……
山中は握っていた海江田の手をそっとベッドの上に降ろした。
さっきまでこの手で包み込んでいた拳が、今は力なくゆっくりと開かれていく様をじっと見守る。
「奥様は冷たい方ですね……一度も見舞いにも来ないなんて」
わざとそう言ってみる。
「愛していらっしゃるんでしょう、今でも」
『ああ、もちろんだとも』
沈黙の声が答える。
『あれは決して冷たい女などではないよ。ただ……私のことは全て分かってくれている』
分かっています、そんなことは。わざわざ言わなくてもよく知っています。あなたと奥様は今でも愛し合っていらっしゃるのでしょう。
遠く離れていても心は通い合っているのでしょう。
「私はこんなにあなたの側にいるのに。こんなに長くあなたと時を共にしてきたのに」
私は……
『山中……きみには感謝している。これまで私の副長としてよく勤めてくれた。私は誰よりもきみを信頼している』
あなたはきっとそう言うのでしょう。
そう、私は誰にも代えることはできない、あなたの唯一無二の副長だ。
それは山中の長年の自負だった。
だから十年の長きに渡って、この人の元に仕えることができたのだ。優秀で聞こえる、あのたつなみの副長速水だって、自分にとって変わることなど出来まい。
……だが、と山中は思う。
自分はそれ以上でも、それ以下でもないのだ……
海にいる時は、私は指揮官の孤独を支えることができる、あの人のただ一人のかけがえのないパートナーだ。
だがひとたび陸に上がれば、あなたはそんなことなどあっさり忘れて遠くに行ってしまう。
あなたを待っている暖かい家庭へ帰り、愛する家族に囲まれれば、私のことなどきれいに忘れてしまうだろう。
深い海の中にいる時だけ、あなたは私だけのものだった。そこでは決してあなたを他の誰にも触れさせることなどない。
……もうそんな夢のような時は終わった。
この人が生きて目覚めることはないのだ、永久に。
「どうしたっていうんです?みんな待っていますよ、あなたを。
あなたの夢はまだ途中じゃないですか。あなたにここまでついて来た者を見捨てるのですか?」
海江田の白い頬と色を失った唇が、またかすかに動いたような気がした。
「……ええ、分かっていますとも」
そんなことは言いがかりだ。
艦長はあらかじめこの日のあるを予測して、こう言い遺したではないか。聞いたのは他でもない自分だ。
あの人はこう言った。
『もしも私が死んだ時は、生きて残った者が自らの意思で考え、結論を出すのだ。
……死んだ者のために戦ってはならない』と。
沈黙の声がまたささやく。
『そうだ……山中。死んだ者の後を追ってはならない。お前はまだ生きているじゃないか。世界は生きた人間のものだ』
「違う!そんな、違う!だってあなたは死んでなどいない! そんなに気持ちよさそうに眠っているのに──!」
山中は声を詰まらせた。
「なぜ……目を覚まさないのです?もう休息は充分でしょう?いつまで寝ているつもりですか?いつまで私に待てというんですか──」
答えはない。
……あの時、なぜ、言わなかったのだろう。ただ一言でいい。
あなたが好きだと。
「私は臆病者でした、艦長。私はあなたに嫌われるのが怖かった。あなたに疎まれるのが何よりも恐ろしかったんです。あなたの側にいられなくなるのが何よりも……」
山中は歯を喰いしばり、怒涛のように自らを襲う後悔の念をじっと受け止めた。
きっと汚らわしい物を見るような目で見られ、艦からは遠ざけられ、この人の元に仕えることなど二度と出来なくなってしまうだろう。
そんなことになる位なら、黙って全てをこの胸一つにしまい、退官するその日まで、ただこの人の副官として生きていければと。
一度も口に出すことなく、墓まで持っていくつもりだったのに……それは邪な願いだったというのか。
山中はふっと口元をゆるめた。
「ああ……もしかすると、こんなことを言っても、あなたは笑って受け流してくれたかもしれませんね。
『何の冗談だ?きみらしくもないぞ、山中』
と、何事もなかったかのように聞き流してくれたかもしれませんね……」
今となってはもうすべてが遅すぎた。
私の言葉はもう永久にあなたには届かない。