永遠と麦の穂
刹那の動揺は指摘されたそれとは違ったけれど、相手に気遣われるほど態度にでていたことは不覚だった。思わずムッツリと黙り込んでしまう。
「私が生きて行くには軍隊に入るしかなかった。軍は衣食住の保証があるから、孤児にはうってつけなんだ」
「……生きるために」
彼は軍人になったのか。刹那は唇を噛みしめる。当たり前だけど、そんなことはまったく知らなかった。
「それと軍に入れば、空を飛びたいという夢も叶えられた。一石二鳥ではあったな」
「夢……」
鸚鵡返しに刹那は呟く。昔は、アリー・アル・サーシェスが来るまでは、刹那にもそういうものがあったはずだった。だが、もうそれがなんであったかも、思い出すことができなかった。
刹那個人の夢も、いつの間にか戦争根絶へと塗り替えられていたのだ。戦いばかりだった人生が弊害となって、それ以外のものを見つめる機会を逸したからかもしれない。
「私は、私に自由をくれる空を誰にも渡したくなくて、そうやってパイロットの腕を磨いていった。空以外には何もなかったはずの私にも、気づけばたくさんのものが生まれていって……」
立膝を抱え、グラハムはランプの明かりに目をやりながら、遠くを懐かしむような表情をしてみせた。
「不思議なのだよ。私の努力は私のためだけだった。誰のためでもなく、私が生きていくためのものだったのに、そんな私を慕ってくれるものができたんだ」
刹那は彼の話に、自分とマイスターやトレミークルーの姿を重ね合わせた。似ている、気がする。ただ、彼の話はすべて過去形であることが違う。
「親友ができて仲間ができて恩師もいて、彼らと共に暮らしたり歩んだりする場所ができて、とても充実していた。あの頃は本当に幸せだった」
大切な人々の顔でも思い出しているのか。グラハムの表情が見たこともないほどの、穏やかなものに変わった。
そして気づいた。ずっと感じていた違和感の正体に。
彼は、過去に想いを馳せているときだけ、笑えるのだということに。
もちろん刹那とこうして話をするときも彼は笑っている──現に今日だってたくさん笑っていた──けれど、それとは種類が違うのだ。心の底から湧き上がってくるような暖かさ、慈しみ、誇りやプライドといったものまでを表現する『笑顔』は、過去の出来事の中からしか生まれていない。
それと比べたら、現在の彼の笑みはカラカラに乾いている。まるでこの砂漠の砂のように、潤いが失われてしまっているのだ。
鵜呑みにするつもりはなかった。けれど実際にその違いを目の当たりにすると、こうも違っているのかとショックでもあった。
グラハムは、愛しさとそして悲しみも滲ませた笑顔で、空への想いを語り続けている。
「空を飛ぶことは今でも特別だが、ただ、あの頃のように純粋な気持ちで飛びたいとは思えない。自由しかなかった空も、今ではしがらみだらけになってしまったからな」
ふっ、と遣る瀬無さも感じさせる溜息を吐いた後の表情は、刹那の前でみせる現在の彼のものと同じだ。
(乾いてしまっている……)
己の罪深さはわかっていると思っていた。だが、これはあまりにも救いようがないのではないか。生きる場所も夢も奪っておいて、それは過去だと言い切ってしまった。
グラハムが形見の刀を手放せないのも、ガンダムの存在にこだわったのも、彼に残されたものが本当にそれしかなかったからだ。
何かと繋がっている証がなければ、世界のどこからも切り離されて忘れられてしまう。ガンダムとの戦いが宿命だと言ったのも、きっと繋がりが欲しかったからだ。
「……グラハム・エーカー」
「なんだ?」
軽く小首をかしげて伺ってくる様子は、刹那のことを完全に子供扱いしていたけれど、今は特に腹も立たなかった。
「俺は、忘れない。お前のことを」
「えっ?」
「俺も、ガンダムも、絶対に忘れない。お前くらいしつこい奴は他にいなかった。忘れられるわけがない。だから……、生きろ!」
生きてさえいれば、必ずまた何か新しいものが手に入る。一度すべてを失った刹那だからこそ、強い言葉でそうだと言えるのだ。
驚きに目を開く彼は、また無防備に刹那を見つめていた。ただでさえ大きな瞳のせいで幼く見えるのに、もう少し用心したらどうだと思う。
ポカンとした表情が徐々に正気を取り戻していった。どこか気が抜けたように肩を落として俯くと、流れた髪が重力に則って揺れる。
「……フフッ、君は本当に……、フッ、面白いな……」
立膝を抱え、そこに顔を伏せて身体を揺らすグラハムの声は、笑っているようでもあり、また泣いているようでもあった。
悲しみというものは、失った直後よりも後のほうが強くやってくる。
刹那は狭いテントの中を移動して、グラハムの隣に膝をついた。何度か大きく震えるその身体を、横からそっと抱きしめてみる。顔は見えないし、本当に泣いているのかもわからない。けれど、彼に拒まれなかったから、きっと間違ってはいないのだ。
時間は流れ、死はやがて悲しみとなって心の中に降る。流れる涙は現実を受け入れた証。辛い記憶は過去として刻まれ、昇華されて行く。優しい思い出だけを残して。
そうやって人は未来に目を向けられるようになるのだ。
どれくらいそうしていただろうか。グラハムの身体を抱き寄せたまま、刹那はたまに肩を叩いたり金色の頭をなでてみたりして、時間をやり過ごしていた。
(柔らかい髪だな……)
誰かの髪に触れてみるといった経験は、ほとんどなかったので、自分のものと違う感触が新鮮だった。細くてコシもなくて、絹糸みたいだと思う。
「……刹那。すまない、少し外に出てくる」
「わかった」
俯いたままのグラハムから、久しぶりの声があがる。
泣き顔を見られたくないという思いもあるだろう。刹那は咎めなかった。抱きしめていた腕を放すと、グラハムの身体はすぐにテントの外へと消えていった。
温もりの消えた腕が、少しだけ寂しい。そんなことを考えた自分に驚き、刹那は熱が下がっていく両腕をじっと眺めていた。
気を利かせて先に眠っていた夜中に、そっと戻ってくる気配があった。刹那はそれに気づいたけれど、眠っているふりをしてやり過ごした。
人影はしばらく隣で動かずにいたが、やがて寝袋に包まる音とともに横になり、すぐに静かになった。寝つきは本当にいいようだ。刹那は妙に安心した気分で眠りについた。
そして何事もなかったように、夜は明けていく。
砂漠は今日もよく晴れそうだ。空気も大地も乾いて澄み切っていることだけが、この地方の美点だった。空はどこまでも青く、星は等級の低いものすらくっきりと浮かび上がらせる。
人の手が加わらない砂漠は、きっと永遠にこの姿を保ち続けるのだろう。