太陽の国(2・夕星の鐘)
見下ろす視線というものは時によっては威圧的に感じられるものだが、それは威圧と呼ぶには無機質な成分を多分に含んだ視線だった。変身術の授業で僕がコップに変えたネズミはこういう気持ちだったのかもしれない。机に向かって本を開いたまま、僕はそんなことを思った。彼女は僕をネズミに変える術の最中のような真剣な眼差しで僕の前に立ちはだかり、僕の短い前髪を見つめていた。いや、短い、というのは穏便に過ぎる言葉だろう。他ならぬ彼女の手によって、ばっさりと切り落とされてしまった前髪だ。おかげで額を無防備にさらして歩かなくてはならなかった。すれ違いざまに好奇の視線を向けられたことも1度や2度ではない。もちろん、この無惨な髪型を修復する方法はいくつもあった。呪文や、道具や、その他の魔法。まだ手懐けていない呪文の中に試してみたいものもあった。しかし僕はそれに手を出さなかった。自分の見てくれに割く時間が惜しかったというのもあるが、
「この薬は効くと思うの」
彼女が責任を持って必ず修復すると言ったからだ。
「髪が蛇になったり変な色になったりしないだろうな」
掲げられたのはコルクで栓をしたちいさな瓶。揺れる液体の向こうで、彼女は満開の笑顔を見せた。
「多分」
「言葉と表情を合わせろ。自信があるのかないのか、どっちだ?」
「伸びすぎたら切ればいいし、色が変わったら染めればいいじゃない」
「蛇になったら」
「一緒にメデューサごっこをしましょう」
「辞退させていただく」
大まじめに彼女の提案を断ると、彼女は弾けるような笑声を上げた。冗談よと言いながら彼女はなおも笑う。冗談ではすまされない。こちらにとっては一大事なのだ。不愉快を眉間で表すと、彼女はようやく笑いを収めて正面から僕を見た。
「大丈夫よ。私が嘘を吐いたことがある?女に二言はないのよ。やるといったらやるし、効くと言ったらこの薬は効くの。心配しないで、ちゃんと実験もしてるから」
実験?
引っ掛かるものを感じはしたが、追及しないことにした。グリフィンドールにメデューサが出たという噂は聞かないから、蛇の線は消えたと思っていいだろう。僕が黙ると、彼女はひとつ頷いてから瓶の栓を抜いた。僕の前髪を引っ張ったり捻ったりして確かめ、それから染みを見つけた絨毯屋のようにうーんと唸った。
「何だ」
不審に思って問うと、彼女はすいと目を細めた。
「短いのもいいと思うんだけどな」
「今更何を。必ずもとに戻すから絶対に触るなと言ったのは誰だ」
「分かってるわよ」
残念そうな顔と口調で、彼女は言う。彼女の髪が肩から落ちた。さらさらと揺れて、それは辺りに明るい色を撒いた。
「手元が狂っちゃったのは、悪かったと思ってるの。でも短いのも悪くないわよ。自分ではそう思わない?」
「思う思わないの問題ではないだろう。問題は、戻せるのか、戻せないのか、だ」
「そうかしら」
「戻せないのか」
「戻せるわよ」
「だったらさっさと」
「わざわざあの鬱陶しい頭に戻すの?」
「戻せるんだろう?」
「戻せるったら。しつこい」
ぴしゃりと彼女がやりとりを打ち切る。しつこいのはどっちだと舌打ちしたい気持ちになりながら口を閉じた。そもそも"鬱陶しい"は余計なお世話だ。閉じた口の代わりに睨み付けると、彼女は少しだけ微笑んだ。でもね、と諭すような穏やかな声が続けた。
「髪を切って、視界が広くなってすっきりしたって思わない?重そうなカーテンのこちらにあった世界のこと、見えるようになったでしょ?あなたは隠れてるの、それとも、隠してるのかしら。ねえ、あなたはもう少し、」
耳にかかっていた黒い髪を断りもなく梳いて持ち上げ、彼女はそのくせその扱いに困ったような顔になり、結局それをばらばらとほどいて耳にかぶせた。僕は目を伏せた。
「身軽になってもいいと思う」
「…賢しげな、ことを」
僕は慌てて頭を振った。髪はまた僕のものになった。ぎり、と奥歯を噛みしめる。
「知ったような口を利くな」
唸るような声で言ってしまってから、話題の反応としては過剰だったことに気付いて背筋が凍った。彼女はただ髪をもう少し短く切ってはどうかと言っただけじゃないか。そうだ。知られているわけじゃない。気付かれているわけじゃない。そうだとも。彼女が話題にしているのは髪のことだ僕自身のことじゃない───だから落ち着け。
顔を上げると、彼女の目とまともにぶつかった。緑色の瞳は何も知らない、知っているはずがない、誰にも何も話してはいないのだから。不当に罵倒を浴びせられたと思って腹を立てているだろうか、それとも余計な興味をかき立ててしまっただろうか。穿つように彼女の様子を見たけれど、しかし彼女は身体を少し引いただけで、さして驚いている様子もなかった。それどころか表情に翳りさえ見えた。
「ごめんなさい」
そのうえ謝られてしまった。
言い過ぎたのはこちらだ謝ることはないというか謝るのはこちらのほうだった、というようなことを口の中でもごもごと呟いてみたが、おそらく彼女にはひとことも伝わらなかっただろう。
それにしても、彼女にもそんな殊勝な物言いができるとは知らなかった。
それを言おうか迷ったが、言わないことにした。
「薬」
代わりに短くそう言うと、彼女はほっとしたように瓶を取り直した。
「塗るの。髪に。そしたら伸びるからね。実験ではかなり伸びて面白いことになったんだけど、その話は今度ゆっくり。伸びすぎた分は私が切るから、あなたは手を出さないで。ちゃんと切るから、私にやらせて。ね。色は変わらないと思う。もし変えたいんだったら考えるけど。金髪とか、赤毛とか?」
空気を塗り替えるように、彼女はことさらに明るい笑顔でそう言った。僕は少しだけ考えてから、鼻でふふんと笑った。
「赤毛は結構」
「ま!」
ひどいこと言うのね、と芝居がかった口調で彼女が僕を非難する。
「そんな色になるくらいなら白髪になった方がマシだ」
「今からでもどんなふうにだって薬に手を入れられるのよ」
「やれるものならやってみればいい」
「いっそピンク色にしてやる」
「黒くする自信がないんだろう」
「私を誰だと思ってるの?」
「赤毛の穢れた血」
「言ったわねスニベルス」
腰に片手を当てて、彼女がぐいと胸を反らす。見え透いた挑発に楽しげに乗ってくる。彼女の目にも、僕の態度は不遜なものに映っているだろう。罵倒や悪口や雑言、そういうものが我々の間にはふさわしい。睦まやかな言葉など似合わない。夕日に染まる西の空、輝き始める惑星、しかし少なくとも我々にとってそれは何の意味もなかった。どんな情緒的な装置にもなりえなかった。紡ぐものなど、ひとつもない。まして、手に入るものなど。変わるものがあるとすれば、
───それは短くなった僕の前髪くらいだ。
僕はゆっくりと本を閉じた。ぱたん、と紙が立てる音はいつも暖かい。その音に背を押されるように僕は口を開く。
「薬はいらない」
作品名:太陽の国(2・夕星の鐘) 作家名:雀居