【藤崎竜作品】蜘蛛の糸
『蜘蛛の糸』
〝ある日のことでございます。
お釈迦様は極楽の蓮池のふちを、
独りでぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました。〟
芥川龍之介『蜘蛛の糸』より
× × ×
子どもの眠っているすぐ傍で、二人の人間が何かを話していた。
「おまえならどうする?」
耳に心地よい声が言う。
「おれなら、最初から上らないな」
と、男の声。男は――子どもの父親は――そう言って、微かに笑ったようだった。
――何を話しているのだろう?
「おれは上らない。けど、おれの大事な者を上らせて、その下で、他に上って来ようとするやつを投げ飛ばしているかもしれない」
× × ×
「なんだい、これは」
ヨキはやや不機嫌な様子で、机に投げ出された汚らしい本を指さした。
「なにって、みやげだ!」
悪びれる事なく子供のように無邪気に、アルは笑って見せた。目を細め、白い歯を見せて笑っている様子は、とても一児の父には見えない。摘んで来た花を母親に差し出す子供そのままだ。
この場合母親は自分ではないか、とヨキは自分の思考にうんざりとした。
うんざりしながらも、好意によって届けられた物だ。計り知れない年月と土で汚れ、本来の色が分からないほどに変色した厚手の表紙をつまみ上げてみる。ほこりなのか風化した紙の成れ果てなのか、分からない塵が磨き上げられたテーブルに零れ落ちた。
「機械を倒した礼にって、村の爺さんがくれたんだ。何でも神がまだ世界にいた頃から伝えられてた、古い話をまとめた本だとさ」
そのじいさん、ボケかかってたから眉唾だけどな、と不遜極まりない言葉を口にして、茶を口にする。その様子を、表紙をつまみ上げたままの格好でヨキはじっと見つめた。
「それはわたしの茶なんだが」
おまえのはこっちだ、とカップを差し出してやったところで時既に遅し。
空にしたカップを机の上に無造作に置くと、アルは背後を振り返った。目線の先には寝台に横になった幼い子ども。そして音もなく浮かぶ御神像。寝台の上には四角く窓が切られており、そこからは暗い夜の砂漠が見えた。
吹き込む風は、水の匂いが微かにする。
「雨が降るな」
「ああ、雨季だからね。しっかり降ってもらわなければ困るよ」
応えながら、椅子に腰掛けたヨキは客人に渡すはずだったコップを傾け、片手で本のページをめくった。注意しなければすぐに破れてしまいそうに薄い紙には、茶色い染みが随所にあり、ページとページの間には小さな虫の死骸が張り付いていて、思わず細い眉をしかめてしまう。
本には何編かの短い話が集められているようだった。
「うはっ! もしかしてこれ全部、古代文字で書かれてんのか!?」
ヨキの手元を見て、アルは頬を引きつらせる。
短い話、とはいえ、一ページにぎっしりと文字が詰め込まれている様子は、読めない者からすれば頭の痛い情景だ。
「……ヨキ先生、読める?」
「当然」
集められた話の中にはヨキの知らない話もあり、ヨキの知的好奇心を十分に満たしそうだった。
一ページずつ慎重にめくっていく。
場所によっては紙が破けてしまっていて読むことが出来ないところがあるものの、印刷された文字のほとんどは未だはっきりしていて、この本が過ごしてきた年月を考えれば、奇跡的なほどに良い状態であるといえる。
「これは掘り出し物だな」
「神の話とかもある?」
「……さあ、それはどうだか」
ふと、ページをめくっていたヨキの手が止まった。
アルがそのページを覗き込むと、見知った古代文字が見えた。地図の中心に描かれた町の名前を表す文字。
「〝蜘蛛の糸〟?」
不思議そうに読み上げた声に、ヨキは薄い唇を歪めた。
「なんだ、あの町の話が載ってんのか?」
「いや、これは……」
言いかけて、口をつぐむ。
「読んであげよう。おもしろい話だ、これは」
そして、男にしては少し高いような、けれど落ち着いた、静かな声で読み始めた。
地獄の底で蜘蛛の糸にすがり、落ちて行った男の話を。
「〝ある日のことでございます――……〟」
……………………――――――――――――――――――
――――――――――――――――――…………………………………………
「なんつーか、救われないっつーか」
話が終わって、アルは苦笑しながら言った。
「自分のことばかり考えてるやつは、真っ先に自分を滅ぼすという教訓だよ」
身につまされるだろう? と、ヨキは少し意地悪く言ってみせ、折りよく壁を降りてきた小さな蜘蛛を掌に乗せる。
蜘蛛は白い掌を這い、糸を垂らして床へと逃げた。
細く光る透明な糸だけが、ヨキの掌に残される。
「これで先生は天国に行けるな」
茶化す男に、ヨキは問うた。
「おまえならどうする?」
「ん?」
「おまえがもしこの男であったなら、どうした?」
アルは少し困ったように首をかしげ、言葉を探すように宙を仰ぐ。
「おれなら、最初から上らないな」
「ほう? というと、始めから諦めているのかい?」
そういうわけじゃなくて、と、アルはゆっくりと息をしながら、
「おれは上らない。けど、おれの大事な者を上らせて、その下で、他に上って来ようとするやつを投げ飛ばしているかもしれない」
言って、自嘲気味に笑った。
「天国に行きたいとは思わない、と?」
「少なくとも、一人では行きたくないな!」
だってつまらないだろう? と、今度は明るい顔で笑う。
それがあまりに眩しく感じられて、ヨキはそっと目を伏せた。
「先生ならどうする?」
「わたしは、」
男が願いを叶える方法は一つだけだったはずだ。それは、同じく登りくる大勢の罪人たちと共に糸を登り続けること。
けれど蜘蛛の糸は細い。糸は天上にたどり着く前に切れてしまうかもしれない。そうすれば自分を含め、すべての人の願いはついえてしまう。
ヨキはそれが恐ろしい。
沈黙に耐えかねて、アルは暗い窓の外を見ている。結局のところ迷うことのない横顔が、妬ましいとヨキは思った。
表面上はすべての願いを代弁すると語るが、二千年来の願いを他の願いで相殺してしまうつもりはない。自分の願いを殺してまで、他人の願いをかなえてやるつもりもない。 たとえ糸が切れようとも、他人を蹴散らしてでも願う続けるほかにない。
「……この男と同じだねぇ」
己のために願い続けることの、その何と愚かなことか。
「センセ、なんか言ったか?」
「いや、なにも」
窓の外では、いつの間にか雨が降りだしていた。
細い雨。
砂漠を潤すにはあまりにも頼りない。
〝ある日のことでございます。
お釈迦様は極楽の蓮池のふちを、
独りでぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました。〟
芥川龍之介『蜘蛛の糸』より
× × ×
子どもの眠っているすぐ傍で、二人の人間が何かを話していた。
「おまえならどうする?」
耳に心地よい声が言う。
「おれなら、最初から上らないな」
と、男の声。男は――子どもの父親は――そう言って、微かに笑ったようだった。
――何を話しているのだろう?
「おれは上らない。けど、おれの大事な者を上らせて、その下で、他に上って来ようとするやつを投げ飛ばしているかもしれない」
× × ×
「なんだい、これは」
ヨキはやや不機嫌な様子で、机に投げ出された汚らしい本を指さした。
「なにって、みやげだ!」
悪びれる事なく子供のように無邪気に、アルは笑って見せた。目を細め、白い歯を見せて笑っている様子は、とても一児の父には見えない。摘んで来た花を母親に差し出す子供そのままだ。
この場合母親は自分ではないか、とヨキは自分の思考にうんざりとした。
うんざりしながらも、好意によって届けられた物だ。計り知れない年月と土で汚れ、本来の色が分からないほどに変色した厚手の表紙をつまみ上げてみる。ほこりなのか風化した紙の成れ果てなのか、分からない塵が磨き上げられたテーブルに零れ落ちた。
「機械を倒した礼にって、村の爺さんがくれたんだ。何でも神がまだ世界にいた頃から伝えられてた、古い話をまとめた本だとさ」
そのじいさん、ボケかかってたから眉唾だけどな、と不遜極まりない言葉を口にして、茶を口にする。その様子を、表紙をつまみ上げたままの格好でヨキはじっと見つめた。
「それはわたしの茶なんだが」
おまえのはこっちだ、とカップを差し出してやったところで時既に遅し。
空にしたカップを机の上に無造作に置くと、アルは背後を振り返った。目線の先には寝台に横になった幼い子ども。そして音もなく浮かぶ御神像。寝台の上には四角く窓が切られており、そこからは暗い夜の砂漠が見えた。
吹き込む風は、水の匂いが微かにする。
「雨が降るな」
「ああ、雨季だからね。しっかり降ってもらわなければ困るよ」
応えながら、椅子に腰掛けたヨキは客人に渡すはずだったコップを傾け、片手で本のページをめくった。注意しなければすぐに破れてしまいそうに薄い紙には、茶色い染みが随所にあり、ページとページの間には小さな虫の死骸が張り付いていて、思わず細い眉をしかめてしまう。
本には何編かの短い話が集められているようだった。
「うはっ! もしかしてこれ全部、古代文字で書かれてんのか!?」
ヨキの手元を見て、アルは頬を引きつらせる。
短い話、とはいえ、一ページにぎっしりと文字が詰め込まれている様子は、読めない者からすれば頭の痛い情景だ。
「……ヨキ先生、読める?」
「当然」
集められた話の中にはヨキの知らない話もあり、ヨキの知的好奇心を十分に満たしそうだった。
一ページずつ慎重にめくっていく。
場所によっては紙が破けてしまっていて読むことが出来ないところがあるものの、印刷された文字のほとんどは未だはっきりしていて、この本が過ごしてきた年月を考えれば、奇跡的なほどに良い状態であるといえる。
「これは掘り出し物だな」
「神の話とかもある?」
「……さあ、それはどうだか」
ふと、ページをめくっていたヨキの手が止まった。
アルがそのページを覗き込むと、見知った古代文字が見えた。地図の中心に描かれた町の名前を表す文字。
「〝蜘蛛の糸〟?」
不思議そうに読み上げた声に、ヨキは薄い唇を歪めた。
「なんだ、あの町の話が載ってんのか?」
「いや、これは……」
言いかけて、口をつぐむ。
「読んであげよう。おもしろい話だ、これは」
そして、男にしては少し高いような、けれど落ち着いた、静かな声で読み始めた。
地獄の底で蜘蛛の糸にすがり、落ちて行った男の話を。
「〝ある日のことでございます――……〟」
……………………――――――――――――――――――
――――――――――――――――――…………………………………………
「なんつーか、救われないっつーか」
話が終わって、アルは苦笑しながら言った。
「自分のことばかり考えてるやつは、真っ先に自分を滅ぼすという教訓だよ」
身につまされるだろう? と、ヨキは少し意地悪く言ってみせ、折りよく壁を降りてきた小さな蜘蛛を掌に乗せる。
蜘蛛は白い掌を這い、糸を垂らして床へと逃げた。
細く光る透明な糸だけが、ヨキの掌に残される。
「これで先生は天国に行けるな」
茶化す男に、ヨキは問うた。
「おまえならどうする?」
「ん?」
「おまえがもしこの男であったなら、どうした?」
アルは少し困ったように首をかしげ、言葉を探すように宙を仰ぐ。
「おれなら、最初から上らないな」
「ほう? というと、始めから諦めているのかい?」
そういうわけじゃなくて、と、アルはゆっくりと息をしながら、
「おれは上らない。けど、おれの大事な者を上らせて、その下で、他に上って来ようとするやつを投げ飛ばしているかもしれない」
言って、自嘲気味に笑った。
「天国に行きたいとは思わない、と?」
「少なくとも、一人では行きたくないな!」
だってつまらないだろう? と、今度は明るい顔で笑う。
それがあまりに眩しく感じられて、ヨキはそっと目を伏せた。
「先生ならどうする?」
「わたしは、」
男が願いを叶える方法は一つだけだったはずだ。それは、同じく登りくる大勢の罪人たちと共に糸を登り続けること。
けれど蜘蛛の糸は細い。糸は天上にたどり着く前に切れてしまうかもしれない。そうすれば自分を含め、すべての人の願いはついえてしまう。
ヨキはそれが恐ろしい。
沈黙に耐えかねて、アルは暗い窓の外を見ている。結局のところ迷うことのない横顔が、妬ましいとヨキは思った。
表面上はすべての願いを代弁すると語るが、二千年来の願いを他の願いで相殺してしまうつもりはない。自分の願いを殺してまで、他人の願いをかなえてやるつもりもない。 たとえ糸が切れようとも、他人を蹴散らしてでも願う続けるほかにない。
「……この男と同じだねぇ」
己のために願い続けることの、その何と愚かなことか。
「センセ、なんか言ったか?」
「いや、なにも」
窓の外では、いつの間にか雨が降りだしていた。
細い雨。
砂漠を潤すにはあまりにも頼りない。
作品名:【藤崎竜作品】蜘蛛の糸 作家名:季菟