はじらいのお兄さま
その日の朝、目覚めると嵐はやんでいた。
穏やかな日差しと窓辺の雪雀の囀り。不思議なほどにさわやかな目覚めだった。
客間の寝台から起き上がり、リヒテンシュタインは手早く着替えを終え、自分で髪を梳き長い二本の三つ編みに纏め、部屋を出る。スイスの寝室だと教えられた扉の方を見やるが、物音ひとつしない。
まだお休みなのかもしれない。リヒテンシュタインはそう判断すると、足音を忍ばせるようにして階下へと降りて行く。まだ邸全体のことは把握できていないが、居間と厨房くらいはわかる。なにか食材があれば朝食の準備をしよう。そう心に決めて、リヒテンシュタインはまず居間を覗く。
誰の気配もなく、カーテンも閉めたままのそこは、まだ夜の名残を残している。中へ入るとひとつひとつカーテンを開けていく。朝の光が闇の残り香を払っていく。眩しげに目を細め、窓の外へと視線を注ぐ。やはり快晴だった。
窓を少し開け風を通していると、カウベルの音が鳴り扉が閉まる音が続く。スイスは早朝から外へ出ていたらしいと気づき、居間の入り口の方へと目をやる。
ほどなく、足音と共にスイスが現れた。居間にいるリヒテンシュタインに気づくと、驚いたように目を見開く。
「ずいぶん早いな。眠れなかったのか?」
「いいえ。ぐっすり眠れたので早く目が覚めてしまいました。おはようございます」
朝の挨拶をされ、スイスは一瞬惑いの表情を見せた。
「ああ、……おはようなのである」
「お兄さまも随分と早いおでかけですね。朝のお散歩ですか?」
「いや、嵐が続いていたからな。家畜小屋の様子を見に行っていたのである。……散歩にもなるかもしれん」
スイスなりに話を合わせようとしてくれている。言葉の端々にその気配を感じ、リヒテンシュタインは少しだけ頬を緩めた。
「今朝の食事の支度は私が致します」
「……お前はまだ身体が本調子ではないのだ。無理をすることはない。我輩がやろう」
そう告げると、スイスはいつもの軍服の上着を脱ぎ、手近にあるソファの背へとかけた。
「もう充分に休ませていただきました。食事の支度程度のことなら、……っ」
リヒテンシュタインの言葉が不自然に途切れた。
「どうしたのだ、リヒテンシュタイン」
「あっ、あの、私……ごめんなさい、失礼します!」
言うが早いか身を翻し、リヒテンシュタインは飛び出すようにして居間を出ていった。
取り残されたスイスは呆気にとられた様子で立ち尽くしていたが、客間の扉が閉まる頃にようやく気づく。
習慣とは怖いもので、上着を脱ぎ、下に着ている黒いタンクトップまで続けて脱いでしまった。汗を拭って着替えるためであって他意はない。ただ、現実問題として上半身は裸の状態であり、同居を始めて数日の少女に見せるようなものではなかった。
一瞬で汗がひく思いを味わうと、部屋着のシャツを手早く纏い、ボタンを留めながら階上の客間へと急ぐ。きちんと締められた扉をノックし、様子を伺う。
「リヒテンシュタイン……驚かせたな、すまぬ」
呼びかけると、スイスはしばらくその場で待った。
だが扉が開かれる気配はなく、やがて諦めたように自分の髪に手をやり、ぱさついた髪をぐしゃりと握りつぶすように掴みしめる。
「食事の支度はしておく。あとで降りてくるとよい。我輩は書斎に籠もるから安心するのである」
通りがよく張りのある声は、それでもやや萎れた気配を含んでいる。
それ以上は待つことをせず、スイスは階下へと降りていく。
そのころ、扉の内側で、真っ赤になった頬の火照りを沈めるべく両手の手のひらを押し当て、リヒテンシュタインは立ち尽くしていた。
申し訳なさを感じながらも、こんなに赤らんだ顔を見せるわけにはいかない。余計に気を遣わせてしまう、と思いこみ、リヒテンシュタインは鏡に映った自分の顔に目をやる。
扉付近に備え付けられた姿見に、恥じらう少女の姿は映し出されている。紅潮した頬は白い肌に色濃く目立っていた。
変に意識したような顔を見られたくはなかった。ただの着替えに妙に反応するような、はしたない娘だと思われたくもなかった。
不意を突かれて視界に飛び込んできた半裸の姿を追い出そうと、リヒテンシュタインは頬を抑えたままでしっかり瞼を閉じ、何度も首を横に振った。
少しばかり肩を落とした状態で、スイスは朝食作りに励んでいた。家畜が産んだ卵。保存しているチーズ。あいかわらず薄いキャベツとベーコンの切れ端だけが浮かんだ、少し哀しげなスープ。それにひたすことでどうにか食べられる硬さになるフランスパン。
変わり映えのしない食事をテーブルに並べる頃、居間の入り口にリヒテンシュタインの気配を感じた。スイスは安堵したように頬を緩めるが、あえて素知らぬ振りで入り口に背を向けたまま、仕度を続ける。
「兄さま……申し訳ありません。お手伝いもせずに」
おずおずとした声が聞こえる。それから、心持ちゆっくりとした動作でスイスは振り向いた。
「落ち着いたか。我輩こそすまぬことをした。……お前のような娘が側にいることに、あまり慣れておらんのである。嫌な思いをさせてしまったな。今後、充分に気をつけよう」
朝食作りをしながら懸命に考えた言葉を、ゆっくり噛んで含めるような調子でスイスは吐き出す。
穏やかに聞こえる口調に、リヒテンシュタインは小さく安堵の吐息を漏らす。
だが首を横に振った。
「いいえ、あの……ここは兄さまのお邸なのですから、そのような気遣いはなさらないでくださいまし」
「違うぞ、リヒテンシュタイン。もはや我輩とお前の邸だ。共に暮らすとはそういうものである。……互いに気遣い、思いやりの心を持つことこそ大切なのである。妙な遠慮はいらぬ。お前の望みをきちんと伝える努力こそが必要なのだ」
ゆっくりとした穏やかな口調のふりは一瞬で消え去った。スイス本来の怒濤の説教口調が顔を出してしまう。流れ落ちるような勢いの即答に、リヒテンシュタインは目を瞬かせ、スイスの顔を凝視した。
その目線を受け、己の失敗に気づき、スイスは狼狽えたように視線をさまよわせる。
「いや、その……つい。すまぬ。……冷めぬうちに食べるがよい。我輩は作りながら食べたのだ。……書斎に籠もるので気にしなくともよい」
リヒテンシュタインから視線を外したまま、スイスは居間から去るべく身を動かした。だがその動きを小さな声が止める。
「……もう少し、ここにいてくださいませんか?」
スイスは動きを止めて、リヒテンシュタインの顔を見た。
「お邪魔でなければ、家畜の話なども聞かせてくださいまし。……いろいろ知りたいのです。兄さまのことも、周りのことも」
リヒテンシュタインはすっと手を伸ばし、スイスの着るシャツの袖口に触れ、細い指先で布地を掴む。
「……もし、ご迷惑でなければ、ですけど」
勇気の糸がそこで途切れたのか、リヒテンシュタインは下を向き、指先が離れていく。
だがスイスはその躊躇を見逃しはしなかった。離れた指先ごと握るようにしてリヒテンシュタインの手を捕らえる。
不思議と、身体全体に渦巻いている照れはなりを潜めた。スイスは落ち着き払った表情で、リヒテンシュタインの眼を覗き込むようにして顔を近づける。
穏やかな日差しと窓辺の雪雀の囀り。不思議なほどにさわやかな目覚めだった。
客間の寝台から起き上がり、リヒテンシュタインは手早く着替えを終え、自分で髪を梳き長い二本の三つ編みに纏め、部屋を出る。スイスの寝室だと教えられた扉の方を見やるが、物音ひとつしない。
まだお休みなのかもしれない。リヒテンシュタインはそう判断すると、足音を忍ばせるようにして階下へと降りて行く。まだ邸全体のことは把握できていないが、居間と厨房くらいはわかる。なにか食材があれば朝食の準備をしよう。そう心に決めて、リヒテンシュタインはまず居間を覗く。
誰の気配もなく、カーテンも閉めたままのそこは、まだ夜の名残を残している。中へ入るとひとつひとつカーテンを開けていく。朝の光が闇の残り香を払っていく。眩しげに目を細め、窓の外へと視線を注ぐ。やはり快晴だった。
窓を少し開け風を通していると、カウベルの音が鳴り扉が閉まる音が続く。スイスは早朝から外へ出ていたらしいと気づき、居間の入り口の方へと目をやる。
ほどなく、足音と共にスイスが現れた。居間にいるリヒテンシュタインに気づくと、驚いたように目を見開く。
「ずいぶん早いな。眠れなかったのか?」
「いいえ。ぐっすり眠れたので早く目が覚めてしまいました。おはようございます」
朝の挨拶をされ、スイスは一瞬惑いの表情を見せた。
「ああ、……おはようなのである」
「お兄さまも随分と早いおでかけですね。朝のお散歩ですか?」
「いや、嵐が続いていたからな。家畜小屋の様子を見に行っていたのである。……散歩にもなるかもしれん」
スイスなりに話を合わせようとしてくれている。言葉の端々にその気配を感じ、リヒテンシュタインは少しだけ頬を緩めた。
「今朝の食事の支度は私が致します」
「……お前はまだ身体が本調子ではないのだ。無理をすることはない。我輩がやろう」
そう告げると、スイスはいつもの軍服の上着を脱ぎ、手近にあるソファの背へとかけた。
「もう充分に休ませていただきました。食事の支度程度のことなら、……っ」
リヒテンシュタインの言葉が不自然に途切れた。
「どうしたのだ、リヒテンシュタイン」
「あっ、あの、私……ごめんなさい、失礼します!」
言うが早いか身を翻し、リヒテンシュタインは飛び出すようにして居間を出ていった。
取り残されたスイスは呆気にとられた様子で立ち尽くしていたが、客間の扉が閉まる頃にようやく気づく。
習慣とは怖いもので、上着を脱ぎ、下に着ている黒いタンクトップまで続けて脱いでしまった。汗を拭って着替えるためであって他意はない。ただ、現実問題として上半身は裸の状態であり、同居を始めて数日の少女に見せるようなものではなかった。
一瞬で汗がひく思いを味わうと、部屋着のシャツを手早く纏い、ボタンを留めながら階上の客間へと急ぐ。きちんと締められた扉をノックし、様子を伺う。
「リヒテンシュタイン……驚かせたな、すまぬ」
呼びかけると、スイスはしばらくその場で待った。
だが扉が開かれる気配はなく、やがて諦めたように自分の髪に手をやり、ぱさついた髪をぐしゃりと握りつぶすように掴みしめる。
「食事の支度はしておく。あとで降りてくるとよい。我輩は書斎に籠もるから安心するのである」
通りがよく張りのある声は、それでもやや萎れた気配を含んでいる。
それ以上は待つことをせず、スイスは階下へと降りていく。
そのころ、扉の内側で、真っ赤になった頬の火照りを沈めるべく両手の手のひらを押し当て、リヒテンシュタインは立ち尽くしていた。
申し訳なさを感じながらも、こんなに赤らんだ顔を見せるわけにはいかない。余計に気を遣わせてしまう、と思いこみ、リヒテンシュタインは鏡に映った自分の顔に目をやる。
扉付近に備え付けられた姿見に、恥じらう少女の姿は映し出されている。紅潮した頬は白い肌に色濃く目立っていた。
変に意識したような顔を見られたくはなかった。ただの着替えに妙に反応するような、はしたない娘だと思われたくもなかった。
不意を突かれて視界に飛び込んできた半裸の姿を追い出そうと、リヒテンシュタインは頬を抑えたままでしっかり瞼を閉じ、何度も首を横に振った。
少しばかり肩を落とした状態で、スイスは朝食作りに励んでいた。家畜が産んだ卵。保存しているチーズ。あいかわらず薄いキャベツとベーコンの切れ端だけが浮かんだ、少し哀しげなスープ。それにひたすことでどうにか食べられる硬さになるフランスパン。
変わり映えのしない食事をテーブルに並べる頃、居間の入り口にリヒテンシュタインの気配を感じた。スイスは安堵したように頬を緩めるが、あえて素知らぬ振りで入り口に背を向けたまま、仕度を続ける。
「兄さま……申し訳ありません。お手伝いもせずに」
おずおずとした声が聞こえる。それから、心持ちゆっくりとした動作でスイスは振り向いた。
「落ち着いたか。我輩こそすまぬことをした。……お前のような娘が側にいることに、あまり慣れておらんのである。嫌な思いをさせてしまったな。今後、充分に気をつけよう」
朝食作りをしながら懸命に考えた言葉を、ゆっくり噛んで含めるような調子でスイスは吐き出す。
穏やかに聞こえる口調に、リヒテンシュタインは小さく安堵の吐息を漏らす。
だが首を横に振った。
「いいえ、あの……ここは兄さまのお邸なのですから、そのような気遣いはなさらないでくださいまし」
「違うぞ、リヒテンシュタイン。もはや我輩とお前の邸だ。共に暮らすとはそういうものである。……互いに気遣い、思いやりの心を持つことこそ大切なのである。妙な遠慮はいらぬ。お前の望みをきちんと伝える努力こそが必要なのだ」
ゆっくりとした穏やかな口調のふりは一瞬で消え去った。スイス本来の怒濤の説教口調が顔を出してしまう。流れ落ちるような勢いの即答に、リヒテンシュタインは目を瞬かせ、スイスの顔を凝視した。
その目線を受け、己の失敗に気づき、スイスは狼狽えたように視線をさまよわせる。
「いや、その……つい。すまぬ。……冷めぬうちに食べるがよい。我輩は作りながら食べたのだ。……書斎に籠もるので気にしなくともよい」
リヒテンシュタインから視線を外したまま、スイスは居間から去るべく身を動かした。だがその動きを小さな声が止める。
「……もう少し、ここにいてくださいませんか?」
スイスは動きを止めて、リヒテンシュタインの顔を見た。
「お邪魔でなければ、家畜の話なども聞かせてくださいまし。……いろいろ知りたいのです。兄さまのことも、周りのことも」
リヒテンシュタインはすっと手を伸ばし、スイスの着るシャツの袖口に触れ、細い指先で布地を掴む。
「……もし、ご迷惑でなければ、ですけど」
勇気の糸がそこで途切れたのか、リヒテンシュタインは下を向き、指先が離れていく。
だがスイスはその躊躇を見逃しはしなかった。離れた指先ごと握るようにしてリヒテンシュタインの手を捕らえる。
不思議と、身体全体に渦巻いている照れはなりを潜めた。スイスは落ち着き払った表情で、リヒテンシュタインの眼を覗き込むようにして顔を近づける。