わかってない!
「つまんない」
「は?」
「つまんないんだぞ! ばかばか、ドイツの馬鹿! 俺はそういう、そういうんじゃなくて、……ああもう、わかんないしつまんないし、もう嫌だ!」
唐突に駄々をこね始めたアメリカに、ドイツは眉をしかめた。くっきりと刻まれた皺に、アメリカの人差し指が、とん、と置かれる。そのままぐりぐりとひねるように押され、ドイツは言葉を詰まらせた。
「アメリカ、おい……痛い、放せ」
「やーだね。だってつまんないんだぞ。ほんとうに、君はどうしてそう難しいことばっかり言うんだい?」
「……難しいこと、だっただろうか」
「ああ、難しいね。君んトコの大好きな哲学やら何やらと同じくらい難しい」
「哲学はな、あれでいてあまり難しくもないぞ。難しく考えるから難しく思えるんだ。そうだな、たとえば……」
「わー! ストップストップ、哲学の話がしたいなら他を当たってくれよ。これ以上哲学の話をするんなら、俺はもう聞かないんだぞ」
「む、……すまん」
先程までドイツが口にしていたのは、兄についてだ。
ドイツには兄がいる。唯一の存在で、絶対の存在で、無二の存在で、彼は兄を愛していたし、恋もしていた。兄のプロイセンは弟のドイツを愛してたし、世界よりも弟が大切だと言って憚らないひとであった。彼らは兄弟だが、世に言うこいびと、というやつでもあり、アメリカの目から見ても誰の目から見ても、彼らは幸せそうだった。
ヴェスト、兄さん、と愛情たっぷりに、見ているほうが恥ずかしくなるようなとろけた声で呼び合うくせに、本人たちはそれに気付いていない。もしかしたら兄の方は気付いているのかもしれないが、ドイツはまったくの無自覚なのだろうと、アメリカは思っていた。
そのドイツが、家にいることを好むドイツが、可能な限り兄とともにいようとするドイツが、アメリカの家を訪ねてきたのは数時間前だ。
ドイツが手土産もなしにずかずかと家に上がり込み、上着を脱いで勝手にソファーに腰掛けるという珍しい光景を、アメリカがきょとんと見守るというこれまた珍しい光景を持って迎えた。
「なんだい、突然。珍しいじゃないか君がアポもなしにいきなり来るなんて。っていうか俺の家に来ること自体が珍しくないかい?」
「……すまん」
ワンテンポ遅れて渡された返事に、アメリカは再びきょとんと目を丸くする。
ドイツは普段、張りのある太くて大きな声で話をする。はきはきと、アメリカとはまた違った力強さを持った、頼もしい声の持ち主のはずだった。
それが、どうだ。しゅんとしおれた声にいつものような張りはなく、大きな口を開けて喋る印象のあったドイツが、必要最低限にしか唇を動かさずに俯いたまま一言だけぽつりと漏らす。なんだこれは。アメリカは半ば混乱したように、ドイツに声をかけた。
「ドイツ、……ドイツ? どうしたんだい、君らしくない。しょぼくれた君なんて見たくないんだぞ。なあ、ドイツ」
何度名を呼んでもドイツは顔を上げず、手探りでソファーの上のクッションを引き寄せるとそれを抱きしめたままぽすんと上半身だけソファーに倒して黙り込んでしまった。
異常事態だ。アメリカは瞬時にそう思った。厳格で、生真面目で、礼儀にうるさく、融通の利かない、それでいてどこか抜けている友人。その彼が、こんなにも弱りきってアメリカを訪ね、隙だらけの姿を晒している。異常事態だと、思った。
「何かあったのかい? 具合が悪いんだろう、連絡……そうだ、プロイセンに連絡するから、少し待って……」
「兄さんには! ……あっ、兄貴には、何も言わないで、……くれ」
一瞬だけあの大きな太い声に戻ったと思ったら、またすぐに空気が抜けたようにしおれてしまった。それだけで、アメリカは全てを察し、眉を下げて困ったように笑った。心配した俺が、ばかみたいだ。
「プロイセンと、何があったんだい?」
敢えて空気を読まないにしても、これは無視できない状況なのだろう。年上の友人のために、アメリカは少しだけ空気を読んでやることにした。
顔を隠すようにクッションを抱きしめたままソファーに倒れ込んだ友人の隣りに座り、アメリカはコーヒーのマグカップをローテーブルに置いた。そのクッションの上からドイツの顔をぽんぽん叩くが、ドイツは起きようとも返事をしようともしない。肩をすくめて、自分のマグカップに角砂糖をみっつ、放り投げた。
濃いこげ茶色の液体を掻き混ぜながら、アメリカは鼻歌をうたう。まるでドイツがそこにいることなど忘れたように、質の悪い紙に印刷されたコミックを手にとって、読みもしないのにパラパラとめくってみたりする。
そのうち、ドイツがやはりクッションを手放さないまま、ぽつぽつと言葉を漏らす。
「……あのひとは、すごい人なんだ」
「うん」
「今は……ほら、あれだがな。昔は本当に、本当に強くて、うつくしくて、大きくて、……恐ろしくて、いとしくて、俺の全てだった。今でも、そうだと……思う。駄目な兄貴だがな」
「そうだね、駄目な兄貴だ」
「うるさい。おまえが兄さんを悪く言うな」
面倒な男だ。アメリカはちいさく溜息をつき、はいはい、と続きを促す。コーヒーを一口含むと、あまり自分好みの味になっていないことに眉根を寄せて、もうひとつ角砂糖をぽちゃんと落とした。
「兄さんは、……兄貴は、」
「『兄さん』でいいよ、別に」
「……兄さんは、本当に俺を、愛してくれているんだ。それはもう、すごく、すごく……。でも、知らないだろう、あのひとは冷酷なひとなんだ。自分に対しても、俺に対しても」
クッションに阻まれたドイツの声が聞こえる。曇っているのは、クッションに声を押し付けているからという理由だけではなさそうだった。
うん、うん、と相槌を打ちながら、アメリカはソファーから立ち上がって戸棚を探す。ポテトチップスの入ったあ大きな袋をバリッと豪快に開け、それを抱えて再びソファーに腰掛けた。
食べるかい? とドイツに口のあいた袋を差し出してみるが、やはりクッションを離そうとせず、首が横に振られただけだった。
「喧嘩を、していたんだ。くだらない、原因すらよく覚えていないような、些細な喧嘩だ。……そのときに、な」
「うん」
「……いなくてもいい、と言ったんだ。あのひとが。プロイセンなんて、おまえにはいらないんだろう、って……言った、から」
「ちゃんと殴ってきたかい?」
ぱりっ。乾燥したじゃがいもを砕き、ぱりぱりと咀嚼する。口にものを入れたまま喋るなと、何度も言われたが直らない、アメリカの癖のひとつでもあった。何度同じことを言われても直さないのは、何度でも同じことを注意してほしいからだなんて、彼は知らないんだろうな、とアメリカは少しおかしくなった。
「……情け、なくて。俺は、あのひとに……兄さんにそんなことを言わせては、いけない…のに……」
ドイツの声が震えていることに、いつまで気付かないふりをするべきなのだろう、とアメリカはぼんやり考えていた。ぎゅ、と握りしめたドイツの手の甲が、まっしろになっている。その手に、ゆっくりと自分の手を重ねた。
「それで、出てきたのかい? 『兄さん』を置いて、ひとりで飛びだしたんだろう?」