ビジネス・チャンス
針のように細い月が夜空に昇っている。
ピドナ王宮の裏通りにある小さな料亭の前に馬車が止まり、中から一人の男が降りてきた。世界に名高いウィルミントンの大商家の若当主、フルブライト二十三世である。
がっしりとした体格と上背を持ち、華麗な模様を織り込んだ上着がよく似合う彼は、鷹揚な大富豪の御曹司といった育ちの良さが感じられるが、今はやや緊張した面持ちでいた。
「どうぞ、中へ」
御者台から降りた男に先導されて門をくぐりながら、彼の持つ商売人としての眼識によって、この料亭が目立たぬ造りながらも、実は贅を凝らせた格式あるものだと知る。
廊下の突き当たりにある重厚な扉が開けられ、その奥に向かって、ピドナのフルブライト家常宿からここまで彼を連れてきた男が声をかける。
「お見えになられました」
そう言うと、フルブライトを振り返る。
「どうぞ」
フルブライトは男に会釈をし、息を整えて足を踏み入れる。
上席で盃を傾けていた男は、フルブライトを見ると口元に笑みを浮かべながら立ち上がった。
「よく来てくれた。私がルートヴィッヒだ」
(やはり、本人だったのか……)
フルブライトは不穏な噂の絶えないピドナ軍最高司令官を目の当たりにして、心の中でつぶやく。年は三十を過ぎているだろう。濃厚でどこか不遜な容貌が、揺らめく明かりの中に見て取れる。
商売人の常として、愛想のよい温和な笑みを浮かべながら彼はにこやかに答えた。
「お招きに預かり、光栄でございます。閣下にはますます御栄盛のほどうるわしく、何よりに存じます」
「御栄盛? それは皮肉か?」
ぴたりと見つめたままルートヴィッヒは口角を上げて問い返した。その言葉の底意に気づき、日頃沈着冷静を自負しているフルブライトであったが、慌てて訂正した。
「いえ、そういう意味では……」
「そういう意味とは、どういう意味だ?」
フルブライトは言葉を切った。
武力ではなく謀略で、メッサーナ軍総帥であるピドナ軍団長の地位を奪い取った元リブロフ軍団長は、相手の言葉尻を捕らえてそれに付け入る陰険な男なようだ。
そう見当をつけたフルブライトは、不敵ともいえる笑みを浮かべてルートヴィッヒを見つめ返した。こういう男にはへりくだるよりも、いっそ飲んで掛かったほうがいい、と開き直ったのである。
「それは閣下がよくご存知のはず」
予想外の反撃に戸惑ったのか、巨大な権力をもつピドナ軍団長は口をつぐんだ。が、やがて苦笑いを浮かべる。
「評判どおり、若いのになかなかの人物らしい」
手を差し伸べてフルブライトを向かいの席に勧め、酒器を持ち上げた。
「今夜は女たちも呼んでいない。君がここに来たことは、おれと、先ほどの男のほかは誰も知らない。つまり、今夜おれたちが会っていることが外に漏れることは決してない」
そう言うと、かすかに肩をすくめた。
「と、言うことはだ、始めの一献は招待したおれがするが、二杯目からは手酌で頼む」
フルブライトは酒の盃を持ち上げながら眉を上げた。ルートヴィッヒの言葉の裏にある気遣いに気づいたのだ。悪評のある軍団長と一緒にいる所が軽率に外に漏れれば、商売に差し支えがあるだろうという配慮からであろう。
「恐れ入ります」
注がれた酒を一気に飲み干し、フルブライトはあらためてルートヴィッヒをまじまじと観察した。