オンリー・ワン
「ふう……」
ロアーヌ宮殿鍛錬場を後にしたカタリナは、熱気で蒸れた兜をねじるように外して息をついた。伸びてきた髪が邪魔にならないように包んでいた手拭を引っ張りながら頭を振る。
手すきで髪に風を通しながら足早に廊下を歩くカタリナの目に、ある人物が写った。
「あ……」
思わず足を止める。が、金色の長い髪を持つ長身の男性は、カタリナが見つめていることに気づかぬ風で、そのまま過ぎ去った。
(今のは……ミカエル様……?)
今の時間、ロアーヌ侯爵は政務を執っているはずだが、見間違えるはずはない。主君に関してなら、どんな人ごみの中でも一目で見つけることができるのだ。まるで、そこだけ光があたっているように感じられる時さえある。
だが、慌ててカタリナは思い直した。家臣である以上、どんな下々の者にいたっても主君を見間違えることなどないだろう。
(私だけが特別なのではない)
それに、ミカエルそっくりに変身した者を見抜けなかった失態が、いまだカタリナの心と前歴に深い傷となって残っている。
気を取りなおして、冷たい水で顔を洗おうと湯殿へ向かったカタリナは、若い侍女を連れ派手に着飾った貴婦人に廊下で呼び止められた。
「ああ、やっぱりここにいたのね。探したのよ」
よく肥えた中年の婦人は、甲高い声を上げながら小走りでカタリナに近寄った。
「叔母様……」
わずらわしい気持ちを押し隠しながらカタリナは微笑み、小柄な叔母を見下ろした。カタリナの母親の弟嫁である彼女は、仲人を趣味としているかのように、縁談話を絶えず持ち込んでくるのだ。カタリナも何度も見合いを勧められているが、その都度、忙しいという理由で断り続けていた。
「やっとロアーヌに帰ってきたのね。聞いたわよ、タフターン山での戦い。あなたも大活躍だったそうじゃないの。姪にあなたのような有名人がいることで、私も最近、あちこちでひっぱりだこなのよ」
「いえ、私などは……」
口を開きかけたカタリナを遮って、笑みを広げながら叔母は話し続ける。
「それに、聞いたわよ。どうして義兄様や義姉様があなたに結婚を勧めないのかやっと分かったわ。あんなすてきな方がいらしたなんて、少しも知らなかった」
「は?」
戸惑いながらカタリナは首を傾げた。何のことを言っているのか、さっぱり分からない。カタリナの両親が無理にカタリナに結婚を勧めないのは、カタリナの人格を尊重しているからであり、カタリナを信用し、愛してくれているからだ。女だからといって才能豊かな娘を家に閉じ込めるようなことはしないと常に父親は言っており、母親もそれに同意している。
「あの、叔母様。話が全然見えないのですが」
「いい人ねえ。私のことを、あなたの姉かと思いましたって。うふふ。あなたみたいな行動派には、ああいう人がお似合いかもしれないわね。ちょっと粗野な感じだけれど、遠くフェルディナント様の血筋を引く方なんですって?」
「一体、どなたのことをおっしゃっておられるのですか?」
だがすでにカタリナの叔母は、侍女を急き立てながら身をひるがえしかけていた。
「あら、いけない。カトリーヌ様の所に行くのが遅れてしまうわ。ナジュ砂漠から、宝石商が見えているんですって。あなたに似合いそうなのも見つけておくわね。では、ごきげんよう、カタリナ」
華やかなことが好きな前侯爵妃の元へ慌しく去っていく叔母の後ろ姿を見送りながら、カタリナは小さく肩をすくめた。
そそっかしい叔母のことだ。誰かと勘違いしているのだろう。