マリアの竪琴
楽と奏者の関係とは、恋人のソレに似ている。
そう呟かれた声を拾い、茶席の用意をしていた少女は目を瞬いた。
邪推、疑念、そういった負の伴わない、純粋な驚愕を灯した瞳の色を見、言葉を発した青年はふと口元を緩める。
「馬鹿面。」
「・・・酷いです。」
むっ、と眉を顰めて口元を引き締めた少女は、少し膨れた頬で青年をねめつけた。
が、まろい頬、薄くさかれた朱、潤んだ双玉はそれを相殺して余りある。
やれやれと肩を竦めると、青年は腰掛けていたソファを徐に立ち上がり、然して距離も無いテーブル席へと気怠い仕草で向かった。
「今日は、何だ。」
「ダージリンにしました。付け合わせはスコーンにしたんですが、少し失敗してしまって・・・済みません。」
テーブルの上を眺めると、ゆらりと揺れる琥珀の液体に、少々焦げ目の目立つ菓子が数点。
たった2人の茶席である、揃いのカップに、夕食前の小腹を満たす軽食としては上々だ。
窓から西日が差し込む数刻前。穏やかな暖かさが人工的な明りを灯さない室内を優しく照らし出す。
優雅に白磁の陶器を傾げる青年の向かいには、五線譜の紙と羽ペンを片手に時折迷わせながら筆を滑らせる少女が居る。
先程少女自身で入れた紅の茶は、湯気を失い掛けていた。
「・・・で?」
「あぁ?」
「さっきのは、どういう意味ですか?」
口を挟む気も起きず、ぼんやりと少女の動きを見守っていた青年に対して、唐突に開かれた唇。
虚を突かれて瞬時動きを止めたが、直ぐに少女の言った言葉が何を指しているのかが分かり、緩く眉を顰める。
「どうって・・・んのまんまだろうが。」
「そのまま、とは・・・」
「愛を持って接し、その為には金も時も手も惜しまない。まるで恋人同士のそれだろ?」
「何だか、それを砂月君が言うのは、少し不自然な気が、します。」
じっ、と覗きこんでくる陽だまりの色が、青年――砂月の心の内をも透かそうとしているようで、砂月は舌を打った。
「それは、砂月君の思っていることなんですか?」
「んなワケねぇだろ、俺がそんな胸糞悪ぃこと思うと?春歌。」
「いえ、」
「どこぞの誰かの戯言だ。全く以て鼻で笑える世迷い言だよなぁ・・・」
嘲笑を浮かべた口元、更に上に位置するエメラルドに浮かぶのは、侮蔑と憎悪である。
それに気付き、少女――春歌は悲しげに笑った。
「きっと、その方は自身の楽器<AX>を、大事にしていらっしゃったのでしょうね。」
「ハッ、どうだかな。皮肉だったんじゃねぇのか?」
「もう、砂月君は・・・」
そういう春歌も、砂月の言葉を咎める様な響きを含ませたが、否定することはしなかった。
何故ならば、彼等は知っている。
決して綺麗なものばかりではないことを。人の、そして欲の醜悪さというものを。
「まぁ、でも・・・」
「はい?」
珍しく言葉を濁した砂月に、春歌は再び進めようとしたペン先を止めた。
どちらにしても、今の心向きでは、好いものは書けないような気がした。
「今じゃあ、強ち間違ったことじゃねぇかも、とは思う。」
「・・・え?」
心底驚いた、と顔に出す春歌に、砂月は失笑する。
何ですかと問う春歌に、少しは取り繕え、と指摘すれば、恥ずかしそうに視線を逸らした。
「相変わらずガキだな、お前。」
「これでも砂月君よりは長生きしてます!」
顔を赤らめて主張する様は、とても歳上に見えないと砂月は思うのだが、春歌の言っている言葉は事実である。
AXである砂月は、生まれてまだ数年。
一方の春歌はまもなくこの世に生を受けて20年の歳月を歩もうとしている。
砂月が恥辱に涙の溜まる眼元にすい、と指を滑らせれば、春歌はそれとは違う意味合いで頬を桃色に染めた。
息を詰める春歌の初な具合に、砂月はフゥと息を1つ吐く。
AXと奏者の間にある、歪に汚らわしい繋がりを知り得ていて猶、AXである砂月を女の1人暮らしの部屋に置いている春歌は豪胆であるのか警戒心に欠けるのか悩む所である。
(・・・いや、どちらも、か。)
「砂月君、言いたいことがあるなら言って下さい。」
「お前の子守りも大変だって思っただけだ。」
「砂月君!!」
もう知りません、と顔を背けてしまった春歌は、砂月の表情の変化を見逃した。
優しげに口元を和らげた砂月は、盛大に拗ねてしまった春歌の頭をクシャクシャに撫で回す。
まるで鳥の巣のようである。グラグラと頭を揺らされた春歌が制止の悲鳴を上げて漸く止められた。
手櫛で髪形を整える春歌は、ハの字に眉尻を下げ砂月の行動に困惑した。
「一体どうしたんですか、砂月君。」
「お前如きが俺を無視するのがいけねぇんじゃねぇのか?」
「・・・子供っぽいのは砂月君の方じゃないですか。」
クスッ、と声を漏らした春歌の表情は、仕方がないと幼子を赦す母親のようだった。
漸く機嫌を持ち直した春歌に1つ息を吐き、ガタリと椅子を引くと回って春歌の隣へと立つ。
一連の行動に何を言うでも無く不思議そうに見守っていた春歌は、完全に油断していた。
「っ、キャっ・・・!」
細長く節張った手に二の腕を掴まれた春歌は、力任せに引く逞しい腕に引かれるまま砂月の正面に立たされる。
見上げた砂月のエメラルドは、引き込まれそうに美しいものだった。
確かに人工的に生みだされたものの筈であるのに、人智の及ばない何か別の力が働いているようで、微かに春歌は背を震わせる。
砂月は春歌の陽だまりの中に自身の姿を認め、嫣然と笑んだ。
「身を尽くし、心を謡い、敬愛すべき相手の為に言葉を、音を捧げるのが器の奏者に対する最大級の好意、そして行為。」
「・・・っ。」
「今までそうした気持ちなど全く理解出来無かったし、したくもなかった。穢れた両の手に触れられ中を弄られるなんて我慢ならない、そう思っていたが。」
「砂月、く、ん、」
「お前なら、構わないと、最近、思う。」
細い身体を腕に抱きこんだ砂月は、身を屈めて春歌の耳元に唇を寄せた。
「お前の為に、お前の為だけに、身も心も明け渡すのも、悪くない、と、思うんだ。なぁ、春歌、」
「はっ、」
耳元に吹き掛かった吐息に、ビクリと細い双肩が揺れる。
小刻みに震える身体、心細げに小さく白い、脆い両手が砂月の服をキュッと掴んだ。
顔を上げ改めて見る春歌の小作りな顔は、期待と不安の色に彩られ、砂月の心を煽る。
不敵に吊り上がった口元が隠す心内とは、如何ばかりなのだろうか。
「俺の、奏者になってくれるか。」
肯も否も紡げる口を塞いで、傾いた日が2人の影を濃く作り出す頃、砂月は春歌の呼吸がままならなくなるまでその柔らかな唇を独占した。