マリアの竪琴
―――腐敗
―――汚泥
―――嘲笑
――――――悲嘆のロンド
断続的な、雨が、誰かの落とした滴の様に、耳触りだった。
ゆるりと、水底を彷徨っていた意識が浮上する感覚に、青年は抗おうとして、無駄な抵抗だとばかりに強引に押し上げられた意識に、薄らと目を開く。
乳白色の微かに薄汚れた空が見える。
いつから世界は空の色さえ彩り鮮やかになったのだろうと働かない頭で考え、次に働き始めた嗅覚がいつもと違うものを捉えたことにより、一気に覚醒する。
バチリ、と開いた眼と共に勢い良く起き上がると、ソレは空ではなく、何所かの天井だった。
そこで青年は冷静に、己の置かれている状況を見分した。
己が横たわっていた場所は、寝台だ。それも、長身の青年が身を置くには聊かサイズが合わない。
乳白色の天井と同じ色の壁紙が四方を覆う一室。
寝台の置かれた側とは逆の壁際には作業机。机上には一輪の花が慎ましく花瓶に納まっている。
はて花の名はなんだったかと一瞬思考が逸れて、どうでも良いことだと不要の烙印を押す。
フローリングの上には薄桃色のカーペットが敷かれており、室内を明るく照らす大きな窓の枠には、小さな人形が行儀良く鎮座している。
総評、知らない者の部屋だ。しかも女の。
青年は警戒も顕わに再び鋭く視線を走らせる。何者の室であるか、気配を探った。
と、どうやら隣室へ続いているらしい扉の向こうから何らかの存在を感じる。それも、こちらに近付いていた。
ついに足音は、扉の前で止まる。青年は臨戦態勢を取り、何某に対しても応じることができるよう心をも構えた。
ドアノブが、ゆっくりと下ろされる。
「あぁ、良かった。気が付かれたんですね。」
入室してきたのは、果たして女であった。一見害が無さそうには見える。
青年は眉間に皺を寄せジロリと女を睨み付けた。
目を眇めた青年の表情は、相応に迫力もあり、気の弱いものならば一目散に逃げ失せる程に目力のあるものだ。
だが。
「身体は冷えていませんか?温かいお飲み物をお持ちしたので、よろしければどうぞ。」
儚げな風貌に、優しげな眼差し。体格とて決して優れているとは言えず、小柄な上に華奢だ。
そんな、少女と言っても差し支えなさそうな風体でありながら、青年の眼差しをものともせず、平然と青年に近付いた揚句、含みの無い笑顔でカップを差し出した。
青年は少女の真意を探って遣ろうと暫く少女を睨んでいたが、やがて青年のほうこそが根負けし、疑わしい目付きのまま、黙ってカップを受け取った。
コクリ、と一口啜ったカップの中身は、酷く甘ったるい。
「・・・・・・甘ぇ。」
つい顔を顰めて低く呟いてしまった青年に、「済みません、早く身体を温めて貰おうと思ったもので。」、と少女は済まなそうに眉を下げた。
取り敢えず、青年は少女に敵意を感じ取らなかったので、蜂蜜が入り過ぎているのではないかと勘ぐってしまいそうな程のホットミルクを少しずつ飲んだ。
身体は兎も角、雨晒しになり冷えて動きの鈍っていた両手の指の感覚だけは、カップの熱により戻って来ているようだ。
ふぅ、と、青年が無意識に漏らした吐息を聞きとって、少女はゆっくりと切り出した。
「どうしてあのような所に居たのですか?それもこのような天気の中を。」
「・・・・・・お前には関係ない。」
青年が横たわっていた場所は、所謂"廃棄場"だ。そこに至るまでの経緯について、青年は口に出す気も誰かと共有したいとも思わない。
故に青年は冷たく脾猊したが、少女は一言済みません、と謝ると、「私は七海春歌と言います。」、と唐突に名乗った。
「実はあそこからこの部屋までは然程離れた場所ではありません。ここは富裕階層のエリアとは離れている場所ですので、あまり綺麗な所では無いのですが。」
「・・・で?」
「ですから、この辺りの人達が身に付けるものにしては、貴方のソレは聊か"綺麗過ぎる"と思ったんです。」
何方かから、逃げて来たのではないですか。
青年は虚を突かれて一瞬押し黙った。
鼻で笑って一蹴することも出来た。
貴族の屋敷からお忍びで外に出て迷ったなど、嘘を吐くことも出来た。
誤魔化す方法も方便も、幾らでも思い付いた。
だが、少女の眼差しに浮かぶ色は真剣味を帯び、真を語る以外を認めないと、そんな気概さえ見て取れた。
そこに見出せるものは害意ではなく、直向きに純粋に、眼前の赤の他人を思い遣ってのことであるということが青年には信じ難いことだった。
言うべき言葉が口から出ず、肯も否も出来ずにいると、春歌と名乗った少女は沈黙を肯定と受け取ったのか柔らかく笑うとこう言った。
「では、暫く私の家に居ませんか?」
「・・・・・・・・・ぁ?」
流石の青年も唖然とした。
少女は何と言ったのか、瞬前の言葉をリピートし、聞き間違いかと思ったものの、春歌の晴れやかな笑顔は寸分も変わっていない。
「お前の、家って・・・」
「はい。幸い私しか居りませんので、同居人が1人増えた所で然して不都合もありません。」
いや、あるだろう。
青年はそう言い掛けて、口を噤んだ。
年頃の少女が、身の完成も近い青年を1人暮らしの自宅に居座らせることについてどう言った危険が孕むのかという点について、昏々と諭してやっても良いが、青年にそこまでする理由も義理も見当たらなかった。
そして、青年にはここで是と返すにしろ否と返すにしろ、その後に起こり得るであろうあらゆる事象、自身の未来に対して、酷く投げ遣りになっていた。
故に、流された先に何があったとしても、どうなろうと知ったことでは無かった。
だから。
「・・・世話に、なる。」
「はいっ!それでは、貴方の名前を、教えて頂けますか?」
「―――――『砂月』」
流された先にある運命に、青年、砂月は便乗してみることにした。